元燕助っ人ハドラー氏が今も抱く、野村克也監督への思い「彼はあまりに偉大」

1993年にヤクルトで活躍していたレックス・ハドラー氏(右)と野村沙知代さんの孫・沙亜也さん【写真:盆子原浩二】
1993年にヤクルトで活躍していたレックス・ハドラー氏(右)と野村沙知代さんの孫・沙亜也さん【写真:盆子原浩二】

1993年にヤクルトでプレーしたレックス・ハドラー氏、“ミミズ食い”の背景は…

 1993年にヤクルトでプレーし、わずか1年間ながら個性を発揮して日本のファンに強い印象を与えたレックス・ハドラー氏が、Full-Countの単独インタビューに応じた。1978年にヤンキースからドラフト1巡目で指名され、1984年にメジャーデビュー。4球団で8年間プレーした後、1993年に来日した。その後、エンゼルスとフィリーズで5年間プレー。現在はロイヤルズのラジオ中継解説者として活躍中で、17~19日(日本時間18~20日)のエンゼルス戦のため、敵地エンゼルスタジアムを訪れた。

――ハドラーさんは本当に野球を楽しんでいますね?

「野球を愛するすべての人が好きなんだ。僕らは彼らからお金をもらっているし、報道する側としても、球場に来る人々を、自分のキャラクターを使っていっぱい楽しませてあげたいと考えている。野球は楽しいんだ」

――日本でも、ヤクルトファンのみならずあなたのことを覚えている野球ファンがたくさんますよ?

「ありがとう。ミミズを食べたことを多くの人は覚えているだろうけど、あれもキャラクターのうち。雨も降ってて、試合もなくて、なんだかみんなのモラルも下がっていた。みんなを笑わせるためにハウエルが拾ったミミズを食べたんだ。あれも僕のキャラクターのうちなんだよ。実際、みんな笑ったし、うまくいった。メディアに取り上げられるとは思ってなかったけどね(笑)」

――松井秀喜さんもそれで覚えていた。

「誰かに何かで覚えていてもらえることはすごく良いことだ。ぼくは日本シリーズの優勝を、あのときの満足感をよく覚えている。アメリカに帰りたくなかった。楽しすぎたからね。街中をあるいていると、『ハドラーーー!』って声をかけてくれたしね!」

――ヤンキースから1巡目で指名された時は?

「あのときはフットボールの推薦をノートルダム大学からもらっていた。そこでドラフト1位で指名され『どうしよう?』となったよ。母親が球団と交渉すると言って、ホットドッグでも買ってきなさいと言われて数十分後に帰ってきたら、『おめでとう! あなたはヤンキースの一員よ!』と。15万ドル(現在のレートで約1654万円)の契約ボーナスも得られた。大学じゃなくて社会に出たんだ」

――そしてピンストライプを着ることになった。

「84-85年のシーズンだね。そのときの監督はヨギ・ベラだった。野村監督のような人だよ。他にもビリー・マーティンだったりドン・マッティングリーだったり、多くの名選手や監督がいた。とても良い経験になったよ」

――いろいろなチームでプレーして日本に行った。なぜ?

「毎日プレーしたかったからだよ。もっとうまくなりたかった。メジャーの最初の5年間はベンチを温め続けた。だけど日本から帰ってきてから5年間、僕は最高のシーズンを送ったよ」

――どこでも守れるユーティリティプレーヤーとして頑張った。

「とにかくプレーしたかったんだ。契約もすごく良かった。でも、日本の球団はもっと高い契約をしてくれたし、出場機会を与えてくれた。自分を高めるチャンスだったし、それがうまくいったんだ」

今も抱く野村監督への感謝の思い「野球は考えるスポーツだと教えてくれた」

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