【あの夏の記憶】埼玉の高校野球番組に抜擢された元球児のイケメン俳優 心に残る“夏の後悔”

高校野球、最後の夏にはメンバーとの温度差も…

 夏の大会の試合当日。最後の夏に懸けるメンバーとの自分の温度差は確かにあった。神田さんはスタンドで観戦していた。試合は接戦で、同点の8回裏に1点を勝ち越され、3-4で敗れた。不思議だった。大粒の涙があふれ出た。一度は背を向けた野球部。気が付けばチームで誰よりも泣いていた。

「後輩からも『(僕が)こんなに泣くとは思わなかった』って言われちゃいました。当時はわかりませんでしたが、今になって考えてみると3年間をやり切れなかった悔しさだと思います」

 意地は張っていても、感情はコントロールできなかった。けがとはいえ、途中で気持ちを切らさなければベンチの中で最後までグラウンドで戦えたかもしれない。

 神田さんの高校野球は不完全燃焼で幕を閉じた。

 あの夏の甲子園は、群馬・前橋育英高が初優勝を果たした。その時、神田さんは渡米の準備をしていた。元々、穣(じょう)という名前もアメリカのメジャーリーガーになってほしいという願いを込めて両親に付けてもらった名前だった。

「父も母も野球が大好きで『大リーガーになれ!』と。僕が野球から離れている時に母がいつの間にかトライアウトに応募していて、受けに行きました。いくつか受かったので、留学先をその中から1校選びました」

 メジャーリーガーになろうだなんていう野望は持っていない。右肩痛の全治1年が過ぎようとした頃、痛みは消え、ボールが投げられるようになっていた。だからこそ、もう一度、野球に挑戦したい気持ちになった。

 渡米後はカリフォルニア州のサンノゼの大学や、ロサンゼルスのクラブチームでプレーした。米国人とのパワーの違いを肌で感じた。何度も何度もバットをへし折られた。

「言葉も野球も難しかったですが、得たものは数えきれないので、僕はアメリカに行ってよかったと本当に思っています」

「いつも僕が道から外れそうになった時、助けてくれたのは友達でした」

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