将来の計画を全部消した― ITコンサルタントとして歩む元G左腕が描く未来

高校時代の体験が原動力「ああいうことが、これから先もあるんじゃないかと」

 みんながやっていないことをしたい。不可能だと言われても、行動を起こすことで笑顔になってくれる人が増えるのであれば切り拓いていきたい。

 柴田氏の原動力となる想いは、高校時代の経験に基づいている。小学6年生の時に投手として全国制覇。ボーイズリーグでも頭角を現し、中学生の時には日本代表としてその名を全国に轟かせた。が、中学3年生で厚生労働省指定の難病「ベーチェット病」を発症し、医師から野球を続けるのは難しいと言われた。それでも野球がしたい。愛知の強豪・愛工大名電に進学したが、他の部員と同じ練習はできず、病気を恨んだ時もあった。

「スポーツ特待生なのにいつもマスク姿で、体育の授業も得点係だったんです。ステロイド薬の副作用で顔はパンパンに腫れるし、『あの子なんで野球部なの』っていう声も聞こえる。思春期だったので自分が入学してよかったのかなと悩むこともありました。でも、倉野(光生)監督夫妻が親身に向き合って下さったんです。

 体調次第でできる練習が全然違う。『今日はここまでやってみます』とやった途端に倒れたり、倒れると数日間動けなくなるので身体と会話をしながら練習をしていました。監督は正直、面倒臭かったと思うんですよ、こんな部員。でも、監督も奥さんも顔に出さずに向き合って下さり、本当に感謝しかありません」

 文字通り、必死の思いで練習を続けた柴田氏の姿を、野球の神様はちゃんと見ていた。3年生の夏に甲子園に出場し、憧れのマウンドに立った。柴田氏自身を含め、誰も想像しなかった現実が、そこにはあった。

「夢じゃないかと思いました。今でも信じられないくらい。でも、ああいうことが、これから先もあるんじゃないかと思って、だから今もワクワクして生きていられるんだと思います」

 野球選手としての計画は25歳で終え、今は新たな一歩を踏み出している。イメージ通りには進まなかったキャリアだったかもしれないが、そこで経験した躓きや喜びがあるから、今がある。実現をいぶかる声はあるかもしれないが、まずは東南アジアを舞台とした新しい野球支援の形を創り上げてみせる。

(佐藤直子 / Naoko Sato)

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