メッツ草創期を支えたアル・ジャクソン氏が83歳で死去、メッツ初の完封勝利投手を飾った左腕
メッツ一期生、「リトル」の愛称で親しまれたタフネス左腕
ニューヨーク・メッツ草創期の先発投手で、1960年代にパイレーツ、メッツ、カージナルスなどで活躍した左腕アル・ジャクソン氏が8月19日に死去した。83歳だった。
ジャクソン氏は1935年12月26日、米テキサス州生まれ。地元の高校から55年にピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約し、キャリアをスタート。59年にメジャーデビューするも1勝どまりだった。
61年10月、エクスパンション(球団拡張)ドラフト22巡目で、翌62年にMLBに参入するニューヨーク・メッツに移籍。メッツの一期生の1人となった。名将ケイシー・ステンゲル率いる新生メッツは弱く、初年度の62年は40勝120敗で最下位に沈む。優勝したサンフランシスコ・ジャイアンツとは60.5ゲーム差だった。ジャクソンは主に先発で36試合に投げて8勝20敗。ロジャー・クレイグの10勝24敗に次ぐチーム2番目の勝ち星だった。
この年の4月29日のフィリーズ戦では8安打されたものの完封勝利。メッツ最初の完封勝利投手となった。8月14日のフィリーズ戦では先発して延長15回を1人で投げ抜き、自責点2で敗戦投手になった。試合時間は4時間35分で、これはMLB史上最も長い時間を1人で投げ抜いた記録として残っている。
翌63年は13勝(17敗)、64年も11勝(16敗)と2年連続でチームの勝ち頭に。178センチと小柄で「リトル」の愛称で親しまれたが、タフで勢いのあるボールを投げる投手だった。65年に8勝20敗の記録を残すと、10月にケン・ボイヤー(大洋でプレーしたクリート・ボイヤーの兄)とのトレードで、内野手のチャーリー・スミスとともに、セントルイス・カージナルスへ移籍。66年はエースのボブ・ギブソンの21勝に次ぐ13勝(15敗)を挙げ、防御率2.51で6位となった。これがジャクソンのキャリアハイとなった。
67年は救援で9勝を挙げるも、ワールドシリーズではロースターを外れて出場せず。このオフにトレードで再びメッツに復帰した。しかし以降の成績は下り坂で、68年は3勝。69年6月にレッズに移籍するもこの年は1勝に終わり、70年春にチームをリリースされて引退した。
メッツでの通算43勝と10完封は、トム・シーバーが破るまで球団記録だった。69年にメッツは「ミラクル・メッツ」と語り継がれる初優勝を遂げたが、クラブハウスで行われた祝勝会にはアル・ジャクソンもかけつけた。
MLBでの通算成績は、10シーズン303試合で67勝99敗、防御率3.98。62年から66年まで5年連続で15敗以上しているが、これはMLB史上2番目の記録。
引退後は、メジャー、マイナーで長く投手コーチとして選手を指導。99年から2000年にかけてはボビー・バレンタイン監督率いるメッツのコーチも務めた。
(広尾晃 / Koh Hiroo)