監督生活33年 「岩手の名将」沼田尚志氏の勇退記念慰労会に約100人が出席
1986年に一関学院(旧一関商工)監督就任、今夏まで指揮を執る
一関学院(岩手)を春夏6度の甲子園出場に導いた沼田尚志監督が今夏で勇退した。監督生活は実に33年。その功績をたたえる「勇退記念慰労会」が15日、一関市内で開かれた。東北地方や関東地方の指導者など約100人が出席。教え子のみならず、多くの指導者から慕われ、愛された“岩手の名将”の人柄が表れた、笑いと涙の会になった。
壇上に上がった沼田氏は「33年間は長くも短かったような気がします」と振り返った。これまで対戦した県内外の多くの学校名とエピソードを挙げながら、何度も「感謝」を口にした。近年は、打力を売りにする盛岡大付、菊池雄星(マリナーズ)や大谷翔平(エンゼルス)を輩出した花巻東に押され気味だったが、岩手県大会では常に上位争いを演じてきた。
沼田氏は校名変更前の一関商工を卒業後、国士館大に進学。国士館大のコーチを経て、1985年に一関商工のコーチに就任した。27歳だった86年秋から監督を務め、県大会でさっそく優勝した。東北大会では初戦の準々決勝で秋田経法大付(現明桜)に2-1で勝利したが、準決勝は学法石川(福島)に0-8の完封負け。「それがスタートでした」。当時、日大山形の監督だった渋谷良弥氏(現青森山田アドバイザー)ら東北地方の高校野球を牽引していた指導者と交流しながら一関商工、一関学院を鍛えてきた。
甲子園出場は春夏6回。監督1年目の87年夏に2年連続で甲子園に出場すると、初戦で宇和島東(愛媛)を3-0で下し、学校として悲願の初勝利を挙げた。それは県勢10年ぶりの白星でもあった。夏は92年、02年も岩手を制し、甲子園で初戦を突破。10年にも出場した。センバツ出場は2回。2003年から08年まで設けられていた、守備力を重視する「希望枠」で06年と08年に選出された(いずれも初戦敗退)。これに象徴されるように守りの野球が“沼田野球”。攻撃では送りバントやスクイズ、エンドランを多用した。
沼田氏と同い年で岩手県高野連理事長も務めた花巻農・田巻晃部長は「『あそこでスクイズをしなかったのは私の弱さだ』と言うくらいスクイズを大事にした人間。岩手大会ではたった1回の対戦でしたが、代名詞のスクイズでこてんぱんにやられたのは、今となってはいい思い出」と話す。対戦は、田巻部長が花北商(現花北青雲)の監督だった98年夏。花北商が先制したが、同点に追いつかれた後にスクイズで勝ち越しを許したという。8、9回には送りバントで走者を進められ、スクイズも決められ、3点ずつを失って敗れた。
「1回も戦えずに終わるのは寂しいので、戦えてよかったです。岩手県で同い年で長く高校野球に携わったのは、たった“2人ぼっち”。勝てなかったり、嫌な思いをしたりしても『沼田尚志はちゃんとやっているんだ』と自分を勇気づけてきた。私にとっては恩人で尊敬する、大好きな人物です」と、高校野球に情熱を傾ける原動力だったと感謝した。