ホークス5代目の背番号「19」 田中達夫氏が11月27日に死去
黒田博樹氏の父・一博氏は佐世保商業時代の3年先輩だった
元南海、阪急でプレーした田中達夫氏が11月27日、大阪市内で死去した。92歳だった。
田中氏は1927年6月19日、長崎県に生まれる(以下敬称略)。同世代には杉山光平や米川泰夫、川合幸三などがいる。長崎県立佐世保商業学校(現佐世保商業高校)に進み、3年先輩には、広島、ドジャース、ヤンキースで活躍した黒田博樹の父で南海、高橋でプレーしたした外野手、黒田一博がいる。後年、田中と黒田は南海で同僚となる。
佐世保商は1946年に初めて夏の甲子園の予選に出場した新興校であり、甲子園とは無縁だった。田中は卒業後は社会人野球の下川商事でプレーする。軟式野球だった。1950年、南海ホークスに入団。当時のプロ野球は2リーグ分立によって人材難が起こっており、軟式出身で無名の田中にも声がかかった。
田中は身長170センチ体重62キロと小柄な右腕だった。元中日監督で野球評論家の竹内愛一は「柔らかいフォームから切れの良いボールを投げるが、軟式出身だけにボールを手から離すのが早く、球の扱いが軽い」と田中の投球を批評している。
初登板は、1950年3月18日、後楽園球場の阪急戦。先発した田中は殿堂入りした大投手の野口二郎と投げ合い、6回まで無失点。7回に2点を失うが、中原宏の救援を仰いで初勝利を挙げる。以後は主に救援投手として登板し、22試合69回4勝2敗、防御率3.39の成績を上げる。
翌年は、8試合に登板、21.2回を投げて防御率0.82という成績を残すが、救援の6試合では無失点だったものの、先発した2試合で7失点(自責点は2)したことから評価を下げた。翌1952年には阪急に移籍するが、この年の3月30日の西宮球場の東急戦で救援投手としてマウンドに上がり2回で2失点したのを最後に1軍のマウンドから姿を消し、この年限りで引退した。
通算成績は31試合4勝4敗92.2回85被安打9被本塁打、31奪三振34与四球、防御率2.81だった。打撃は優秀で、33打数10安打2二塁打1打点、打率.303を記録している。南海では、このほど甲斐拓也が継承した背番号「19」をつけていた。ホークスでは5代目の背番号「19」だった。阪急では「21」をつけた。
(広尾晃 / Koh Hiroo)