球団消滅から15年― 豪快伝説、個性派集団、いてまえ打線…最後の選手会長が語る近鉄

コンバートを経て優勝に貢献し、“近鉄最後の選手会長”に

 当時の近鉄の捕手陣は守備型の選手が多かったこともあり、礒部氏は“打てる捕手”としての期待を受けてチームに加わった。その打力を活かすため、入団当初は捕手と外野手を兼任し、時には試合途中に外野から捕手に回ってマスクを被るという、現在のプロ野球では考えられないような役割をこなしていた。

 立場上、捕手のミーティングにも常に参加し続ける必要があり、「外野で守っている方が全然楽でした。キャッチャーは重要で、大変なポジションですから」と当時を振り返ったが、「社会人の時からやっていて、プロに入ってからもその流れでやらせてもらって。僕はもう、それに慣れっこでしたから。僕たちにとっては試合に出ることが一番だったので、どういう形であれ試合に出られて、僕の中ではよかったなと思います」と、難しい役割にも前向きに取り組んでいたという。

 その後、2001年の開幕直前に外野手へ専念することに。この年は「6番ライトで出た開幕戦で逆転3ランを打って、外野手としてのいいスタートが切れた」という。その後、タフィー・ローズ氏と中村紀洋氏の後を打つ5番打者に定着。17本塁打、95打点、打率.320という好成績を記録してベストナインにも選出され、球団最後のリーグ優勝に大きく貢献した。

「逆転勝利もかなり多かったし、波に乗ったチームの中で、その波に乗らせてもらったという感じの1年でした。リーグ優勝もしましたし、(無安打に終わった)日本シリーズで逆シリーズ男にもなりましたし……何かと、印象深いシーズンでしたね」

 その後、礒部氏は2003年にチームの選手会長に就任。2004年には球団合併阻止のために奔走したが、球団を存続させることはかなわず。結果的に、礒部氏は“近鉄最後の選手会長”となった。

「僕にとっても、すごく辛かったですけど……一番最後に選手会長としてそういう活動ができたことは、野球人・礒部公一をつくるうえでは、いい経験になったんじゃないかとは思います。ただ、今後、ああいうことはあってはならないと思いますし、勘弁してほしいですけどね。若い選手たちには、僕と同じような気持ちになってほしくはないですから」

まさにプロ、野球になれば一気にまとまる個性派集団

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