「念ずれば花開く」元西武GG佐藤氏、補欠をプロに導いた“恩師”野村克也氏への感謝

大学4年間は補欠、プロ入り信じる父が母に一筆書かせる珍エピソードも…

──野村さんとの出会いが人生を決めた

「それと、父の影響も大きかったです。僕が6歳のとき、ボールを転がしたら物の見事にさばいたらしいんです。父は母に『佐藤家にとんでもない子を授かっちゃったぞ。この子は必ずプロ野球選手になる』って言ったそうです。そこから二人三脚が始まっちゃったんですね。小学生時代の6年間は、毎朝6時に起こされて、父と一緒に練習しました。ランニングして、ノックして、ティー打撃して1時間。空地にネットを立てて、金属バットで硬球をカンカン打ってました。今はこうして住宅地になっていますが、当時は野原で、ご近所に怒られることはありませんでした」

──お父さんも「念ずれば花ひらく」の精神でサポートしていた

「大学卒業のとき、ドラフトで指名されず、母は父に『あなたは嘘つきね。隆彦はプロ野球選手にならないじゃない』と言ったそうです。ところが父は『ふざけるな! 今から必ずなるから待ってろ。おまえ、一筆書け』と言い返して、母に『息子佐藤隆彦がプロ野球選手になった際には、私は毎晩三つ指ついてあなたをお迎えします』と書かせた。それがいまだに残っているんです。父は、僕がプロ野球になるとは誰も思わない中、たった1人僕のことを信じてくれたんです。その思いに応えたいというのは、子供ながらにありました。僕の夢でもあり、父の夢でもあった。それは間違いなく原動力のひとつでした」

──大学卒業後、テストを受けて米大リーグ・フィリーズ傘下の1Aに入り、3年間在籍。内野から捕手にコンバートされた

「いい経験をしました。メジャー昇格を目標にしてはいましたが、レベルが本当に高くて、1Aにしかいけなかった。1Aにも上、中、下とレベルの違う3チームがあって、真ん中までは行ったんですが、その上に2A、3A、そしてメジャーがあるのですから、とんでもない国だと思いました。3年間でクビになり帰国しましたが、アメリカですごく野球がうまくなったんですよ。向こうでは試合に出まくりましたから。補欠だった大学時代には年間5試合も出ていなかった僕が、100試合も出た。そりゃ、うまくなりますよ。法政大学は同級生の広瀬純(現広島外野守備・走塁コーチ)、阿部真宏(現西武打撃コーチ)、1学年上の安藤優也さん(現阪神2軍育成コーチ)をはじめプロに行く選手がたくさんいましたが、そういう物差しでみても、今なら絶対に日本のプロには入れると思いました」

──03年に西武の入団テストを受け、ついに同年ドラフト7巡目で指名された

「ドラフト会議のわずか2週間前、知人のつてで、埼玉・所沢の西武の室内練習場でテストをしていただくことになりました。その年に現役を引退され、監督に就任したばかりの伊東勤さん(現中日ヘッドコーチ)が来てくれて、その日のうちに『取る』と言ってくれました。伊東さんの引退でちょうど捕手の枠が空いていた。ラッキーでしたね」

【次回は北京五輪の悪夢と現況について語る】

(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)

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