元中日ドラ3、第2の人生は起業の道へ 抱き続けた現役時代の不安と後輩たちへの思い
落合氏に背番号1もらった元中日外野手が選んだ起業の道「セカンドキャリアの見本に」
白いTシャツに紺のセットアップ、手にはノートPC。ユニホームを脱ぎ、新たな挑戦が始まった。昨季限りで中日を戦力外となり、引退した友永翔太さん。これから、現役生活よりも長くなる第2の人生を熟考し、起業という道を選んだ。
選手への未練は当然あった。だから戦力外通告後、昨年11月の12球団合同トライアウトを受験した。結果は4打数無安打。「悔しい思いのまま終わりたくない」と、その18日後に行われた「ワールドトライアウト」にも参加した。最終的にNPB球団からオファーはなく、年をまたいで再出発の居場所を模索した。
現役時代に築いた人脈を振り返り、野球界以外で活躍する知り合いの起業家らに話を聞いて回った。「人と人とのつながりが大事だと、あらためて思いました」。周囲に応援してくれる人も多く、思い切って起業を決断。株式会社「RESKA」を立ち上げた。東海大相模高時代、SNSのユーザーネームを決める際に目の前にあったレモンスカッシュからとった「レスカ」。その愛着ある名前に、新たに意味を宿した。
Restart Keen Attack――。「人生のリスタートを勢いよくアタックしていきたい、という意味です」
2つの事業に乗り出す。ずっとファッションが好きだったこともあり、デザイナーの知人の協力を得て、アパレル展開を計画。気軽に着れるTシャツやゴルフウエアの製作を目指す。さらにオンラインで募集した受講者のもとに出向き、マンツーマンで野球を教える「パーソナル野球教室」も行う。
振り返ると、プロでは悔しさばかり味わってきた。国際武道大から日本通運をへて、ドラフト3位で2015年に中日に入団。当時の落合博満GMから背番号1を与えられた。1年目から1軍での出場機会を得たものの、7試合どまり。計5年間で34試合の出場に終わった。
「自分に芯がなかった。いろんなアドバイスをいただけたのはありがたいですが、変な意味でイエスマンになってしまった。これだけは変えないという芯がないと、プロでは生きていけないんだって」
最後の数年は、秋が近づくたびに戦力外の恐怖がよぎった。「野球だけに集中しなきゃいけないのに、その気持ちがすごく邪魔だった」。クビになること自体より、クビになったあとの将来への不安。それを少しでもなくすことができれば――。「現役をやめた後、こんな選択肢もあるんだよとセカンドキャリアの見本のひとつになれれば」と思いを込める。
プロ野球の世界のように、甘くないのは分かっているつもり。新型コロナウイルス感染拡大の影響で、思うように事業が進展していかないのがもどかしいが、あくまで前向きに向き合う。「大変だからと言って、諦めるのは簡単。でも、達成したことで得られるものがあると思うんです」。芯のある起業家に、なってみせる。
(小西亮 / Ryo Konishi)