【私が野球を好きになった日1】西武・山川の憧れだったイチロー 約20年前の記憶と言葉
小学校4年で野球を本格始動した時、イチローはマリナーズへ「結果は“後からついてくる”ものではない」に共感
本来ならば大好きな野球にファンも選手も没頭しているはずだった。しかし、各カテゴリーで開幕の延期や大会の中止が相次ぎ、見られない日々が続く。Full-Countでは選手や文化人、タレントら野球を心から愛し、一日でも早く蔓延する新型コロナウイルス感染の事態の収束を願う方々を取材。野球愛、原点の思い出をファンの皆さんに共有してもらうため本企画をスタート。題して「私が野球を好きになった日」――。第1回は西武・山川穂高選手。
「イチローっす。カッコよかった。僕にとっては野球を始めた頃から、イチローさんがスーパースターです」
一昨年47発。昨季43発。2年連続本塁打王の西武・山川穂高内野手に「野球を好きになったきっかけや人物」を聞くと、こう即答した。現役随一の長距離砲が、球史に残る“安打製造機”の名前を口にしたことは、意外といえば意外だった。
沖縄県出身の山川は小学4年の2001年、地元の少年野球チームに入り本格的に野球を始めた。イチロー氏がメジャーリーグに移籍し、いきなり新人王、首位打者、盗塁王、さらにMVPまで獲得して、野球の本場に衝撃を与えた年である。「図書館で読んだ本だったかな、イチローさんが『“結果は後からついてくる”という言葉があるけれど、そういうスタンスは、結果を出すための困難から逃げている。結果は、困難を伴いながら、出しにいって出すものだと思います』という趣旨のことをおっしゃっていると知って、すごい考えだなぁと思いながら、すごく納得したことを覚えています」と振り返る。
だが、イチロータイプのバットやグラブを購入したことはなく、打撃フォームをまねしたこともない。「イチローさんは左打ち、僕は右打ちという違いがありますし……会ったことはもちろん、生で見たこともありません。ずっと“テレビ越しの人”。大好きな(お笑いタレントの)松本人志さんを見るのと似た感覚です」という。
「そもそも、野球はやるのが好き。子供の頃から、テレビの前でじっとしているタイプではないですし。プロ野球選手からサインをもらったこともありません。人から学ぶことはあっても、会ってみたいとかはないんです」とキッパリ。「結局、自分で体を動かしながら、自分のバッティングをこうだな、ああだなってやってきた。プロに入ってから、身近で中村(剛也内野手)さんの練習、野球に取り組む姿勢を見て、だからこういうホームランバッターになるのかと思ってまねをしたことはありますが、アマチュア時代は自分のやりたいようにやっていました」と言う。
憧れても、むやみにまねはしない。有名な“イチロー語録”には「憧れを持ちすぎて、自分の可能性をつぶしてしまう人はたくさんいます。自分の持っている能力を生かすことができれば、可能性は広がると思います」というのがあるが、図らずもこれを地で行くような考え方だ。
野球を始めたのは「小学3年の時、近所に住んでいて仲が良かったクラスメートが野球をやっていたから。誘われて、やってみたら意外にうまくできたので、少年野球チームにも入った。そいつに誘われなかったら、野球はやってなかったでしょうね。(今があるのは)そいつのおかげなんすよね。彼は今、沖縄で刑事をやってますけど」と、遠い目をする。
中学時代は硬式野球チーム『SOLA沖縄』に所属し、中部商高では3年の夏に沖縄大会決勝まで進出したが、「キツかった。戻れるとしても、中学時代と高校時代には戻りたくないです」と苦笑する。それでも野球をやめなかったのは「意地ですね。途中でやめて、“負けた”みたいになるのが嫌だった」。
イチローの雄姿が野球への興味を加速させたが、それだけでは一流になれなかった。自分自身を見つめることが何より大事なのだと、山川の言葉は強く認識させてくれる。
○…【私が野球を好きになった日】では今後も野球人、タレント、アナウンサーら著名人が自身が野球に魅了されたきっかけを紹介していきます。エピソードに共感していただきたい思いと、この著名人の考えや思いが「おうち時間」の増えた野球少年、少女たちに何かきっかけを与えることができればと編集部一同、考えています。
(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)