【私が野球を好きになった日10】TJ手術の権威、古島医師の野球の原点 「やっぱり王さん」
慶友整形外科病院で数多くの野球選手を治療、子どもの健康を守るために尽力の日々
本来ならば大好きな野球にファンも選手も没頭しているはずだった。しかし、各カテゴリーで開幕の延期や大会の中止が相次ぎ、見られない日々が続く。Full-Countでは選手や文化人、タレントら野球を心から愛し、一日でも早く蔓延する新型コロナウイルス感染の事態の収束を願う方々を取材。野球愛、原点の思い出をファンの皆さんと共感してもらう企画をスタート。題して「私が野球を好きになった日」――。第10回は医療の現場から野球を支える慶友整形外科病院スポーツ医学センター長の古島弘三医師だ。
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群馬県館林市にある慶友整形外科病院には、近隣の県だけではなく、全国各地から肩肘に故障を抱えた野球選手が集まる。日本国内でトミー・ジョン手術(肘内側側副靱帯再建手術)の権威とされる伊藤恵康医師、そして古島医師に診断、治療を仰ぐためだ。古島医師は子どもたちの健康を守るため、「練習過多」や「勝利至上主義」に警鐘を鳴らし、「ずっと野球を好きでいてほしい」と願う1人。もちろん、自身もかつては群馬県榛名町(現高崎市)で野球少年だった。
「僕が持つ最初の野球の記憶は、小学1、2年生くらいですね。テレビをつければ常に巨人戦をやっていたので、それを見て育ちました。1年生の時に、ちょうど王(貞治)選手が756号を打って盛り上がっていましたね。だから、やっぱり王さんのホームランを見るのが楽しみで、毎晩当たり前のようにテレビに食いついて見ていましたね」
実際に野球を始めたのは小学3年生だった。地元のスポーツ少年団にあったのは、野球かサッカーの2択。「他のスポーツをやる理由がなかったですよね」と笑う。当時は「同級生と学校や近所の田んぼでキャッチボールをしたり、家で壁当てをしていましたね。当時は誰に怒られるでもなく、隣の家の庭にボールが入っても勝手に取りにいくのも大丈夫でした」という大らかな時代。「野球は午前中のみで午後からは友達と山行ったり川行ったりして遊んで家にはいませんでしたね。勉強は中学生になってからまじめに頑張りました」と振り返る。
小学生の時は小柄だったので投手、捕手、ファースト以外を中心とした内外野を守り、打席では篠塚和典選手の打撃フォームを真似た。
「僕は右打ちでしたけど、篠塚さんのバッティングフォームが大好きでした。バットを寝かせて打つと、ヒットがよく打てたんですよ。小中学校では篠塚さんのフォームを真似してましたね。その後、原(辰徳)さんのフォームがカッコよくて真似したこともあったんですが、バットを立てるとうまく打てなくて、やっぱり篠塚さんのバッティングフォームに戻しました(笑)。医者になってからの草野球時代は仁志(敏久)さんが同年代の憧れでしたね」