【私が野球を好きになった日13】サッカーの街から生まれた名手、仁志敏久氏と野球の出会い
少年時代はさまざまな野球遊びに熱中「僕らの地元ではゴロ野球もしましたね」
本来ならば大好きな野球にファンも選手も没頭しているはずだった。しかし、各カテゴリーで開幕の延期や大会の中止が相次ぎ、見られない日々が続く。Full-Countでは選手や文化人、タレントら野球を心から愛し、一日でも早く蔓延する新型コロナウイルス感染の事態の収束を願う方々を取材。野球愛、原点の思い出をファンの皆さんと共感してもらう企画をスタート。題して「私が野球を好きになった日」。第13回は元巨人、横浜の仁志敏久氏だ。
現役時代は攻守好打の二塁手として人気を博した仁志氏は現在、侍ジャパンU-12代表監督としてアンダー世代の育成に関わっている。子どもたちに野球の楽しさを伝え、競技普及に努める仁志氏と野球との出会いは、幼稚園の頃に遡るという。
「何歳くらいだかはっきりは分かりませんが、幼稚園の頃には野球らしきことは、もうやってましたよね。ボールを投げて打つくらいのことでしたけど、気が付いたら野球をして遊んでいた感じです。父親が昔の人なんで、プロ野球とか相撲と必ず見ている家庭で、野球は毎晩テレビで見ていましたね」
友達とはキャッチボールをしたり、ゴム製のボールで遊んだり、とにかく「野球遊び」に励んだ。
「当時は野球の遊びを子どもたちがアレンジして、手打ち野球だとか、いろいろなルールのキックベースもしましたし、僕らの地元ではゴロ野球もしましたね。ピッチャーがゴロしか投げないっていう(笑)。そうやって遊んでいました」
生まれ育った茨城県古河市では当時、各小学校にスポーツ少年団の野球チームがあり、それとは別に古河市全体で「選抜」と呼ばれるチームがあったという。もちろん、仁志氏は両方に参加していた。
「スポーツ少年団のチームは小学校対抗みたいな形で活動して、市外のチームと試合をしたり、大きな大会に出る時は『選抜』が参加していたんです。『選抜』という名前ではあるんですけど、希望者は誰でも入れるという(笑)。ただ、すごく理には敵っていました。選抜は土日に練習があったので、軽く野球をやりたい子はスポーツ少年団だけ、もっと頑張りたい子は選抜にも入るという形でしたね」