元大洋・屋鋪要氏が語る“スーパーカートリオ” 1イニング3盗塁死も「常にノーサイン」
大恩人・関根潤三さんのお葬式には「何を置いても行きたかった…」
プロ1年目の自主トレの段階で早くも、俊足が首脳陣の目に止まり、いきなり1軍キャンプに抜擢。この年、1軍公式戦にも9試合出場している。しかし、もともと右打ちで、2年目の夏から取り組んだスイッチヒッター転向には苦労した。
「当時、スイッチヒッターになる人がたいていそうであったように、僕もコーチから『ボールを叩きつけて、内野安打を狙え』と教えられました。しかし今思えば、前から来るボールに対し、上から下へバットを出していたら、当たる確率は上がるわけがありません」
転機となったのは、1982年の関根潤三監督の就任だった。「それまでと違い、バッティングの基本通り、きれいなレベルスイングを教えていただきました。遠征先の宿舎で監督室に呼ばれ、素振りを見てもらったこともあります」。左打ちもメキメキ上達し、84年には規定打席数を満たした上で打率.305をマークした。
その関根氏が今年4月9日、老衰のため死去した。「僕は関根さんに育ててもらいました。大恩人です。お葬式には何を置いても行きたかったのに、コロナ禍でかなわなかった。残念でなりません」と落胆を隠せない。
屋鋪さんのプロ野球人生の絶頂期は、1985年に就任した近藤貞雄監督によって、高木豊、加藤博一とともに「スーパーカートリオ」と名付けられた頃だろう。同年に打率.304、自己最多の58盗塁をマーク。翌86年からは3年連続盗塁王を獲得した。
「当時は何とも思っていませんでしたが、引退後、出会った人たちから『あのスーパーカートリオの屋鋪さんですか!』と言っていだたくことが増えて、ありがたいと感じています。よくぞ名付けてくれました」