西武黄金期のバントの名手が語る“2番打者最強論” 「打つ2番もいい」
川相昌弘の553犠打に次ぐ歴代2位の偉業
身を移した西武は、当時2年連続で日本一。さらなる常勝チームの構築に欠かせない存在として迎えられた。1番・石毛宏典と中軸の秋山幸二、清原和博をつなぐ役割を、名将・森祇晶監督から託された。「『お前やってくれよ』って言われたら、感無量というか、やるしかないなと思いましたね」。まだそこまでトレードの成功事例もなかった時代。「西武で、もう1度しっかりやろうと。失敗したと言われたくないし、とにかく必死でしたね」。
やるべき仕事は明快だった。「1番が出たら、どういう形でも送る。1番がアウトになったら、代わりに何とか塁に出る。出塁、チャンスメークに尽きると思います」。その言葉通り、88年から5年連続でリーグ最多犠打を記録。縁の下の力持ちとしてチームの全盛を支えた。19年間の現役生活で転がし続けた数は、実に451。川相昌弘の553犠打に次ぐ歴代2位だ。
自身のプロ人生を支えた2番像は、近年のプロ野球では少数派になりつつある。ヤクルトの山田哲人、DeNAのネフタリ・ソト、巨人の坂本勇人……。今季も多くのチームが、屈指の強打者を2番に据えている。メジャーが源流の思考に対し、平野氏は「打つ2番もいいんじゃないですか」と理解を示す。その上で、「いろんな考え方があるので、これが正解とは言えないでしょうが」と前置きしつつ、より“2番向き”である打者の条件を挙げる。
「左より、右バッターの方がいい。ランナーを置いている状況で、開いている一、二塁間を抜けるような打球が打ちたい。そうなると、引っ張りになる左より右の方が打球を転がしやすい。右だとランナーの姿も見えますし」
積み上げてきた経験が、ひとつの答えを生んだ。もちろん打順の組み方などチームの事情も関わってくる。ただ、勝利への貢献こそが正解だとするなら、西武黄金期の一翼を担った2番像は、正解に近かったのかもしれない。「送らない2番」は単なる流行りか、野球の成熟が生んだ進化の形か。平野氏も、球界の趨勢を鋭い眼光で見つめている。
(小西亮 / Ryo Konishi)