西武黄金期のバントの名手が語る“2番打者最強論” 「打つ2番もいい」

西武などで活躍した平野謙氏【写真:編集部】
西武などで活躍した平野謙氏【写真:編集部】

中日、西武、ロッテでプレーした外野とバントの名手・平野謙さん

 1番が出塁して、2番が送る……。古くからの定石が近年、変わりつつある。今季のプロ野球でも多くのチームが取り入れている「送らない2番」。そんなトレンドを、歴代2位の451犠打を誇る元外野手はどう見ているのか。中日、西武、ロッテの計19年間でゴールデングラブ賞を9度受賞し、昭和から平成にかけての西武黄金期を不動の2番として支えた平野謙氏が、自身のプロ人生から導き出した持論を語った。

 ♪一番田尾が塁に出て 二番平野が送りバント……

 中日の応援歌「燃えよドラゴンズ!」の1982年版で歌われている一節。平野氏の代名詞で、その年は当時のシーズン最多となる51犠打を記録した。“相棒”だった田尾安志氏は、84年まで3年連続で最多安打を記録。現在は沖縄初のプロ野球チーム「琉球ブルーオーシャンズ」でシニアディレクター兼打撃総合コーチを務めるリードオフマンとの連係プレーを、平野氏は思い起こす。

「田尾さんはバットを振っていく攻撃的な打者でした。ランナーになっても、すごくスタートが良かったのを覚えています」。平野氏が送りバントを試みてうまく打球が殺せなくても、ちゃんとセーフになってくれる。それが不思議で「よくセーフになりますね」と聞くと、さらりと言われたという。

「お前がバントをしたら絶対に転がしてくれるから、信用してんだよ」。これ以上ない言葉を意気に感じる反面、「余計プレッシャーにもなりました」と笑って懐かしむ。田尾氏がトレードで西武に移籍した85年以降は1番を務めることも多く、86年には盗塁王を獲得。3拍子そろった外野手の地位を築き始めていた矢先、転機が訪れる。

 相次ぐ故障に見舞われた87年。うまく野球と向き合えなくなっていた。「ゲームに集中できない。周りが悪いとかじゃなくて、自分自身のおごりというか……」。その秋に、トレードで西武への移籍が告げられる。「あの時、自分を律することができていれば、ドラゴンズから『もう平野はいらないよ』って言われなかったかもしれない。それが、自分の野球人生を振り返っての反省です」。胸にしこりとして残った後悔の念は、新天地での躍動の原動力になった。

川相昌弘の553犠打に次ぐ歴代2位の偉業

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