球界屈指の巧打者が「最初から諦めていた」 元巨人篠塚氏が顔も見たくない投手とは?
先発3本柱、変則左腕、“ささやき戦術”の捕手を擁した難敵たち
読売巨人軍史上屈指の好打者で通算1696安打を放ち、守備でも名二塁手として鳴らした篠塚和典氏(1992年途中までの登録名は篠塚利夫)が、現役時代に苦しめられたライバルたちを振り返った。天才打者といわれた篠塚氏には、どうしても打てない苦手投手に対しても、自己流の対処法があった。
当時巨人と何度も激しい優勝争いを演じ、篠塚氏が大活躍した1980年代にリーグ優勝を3度、日本一を2度成し遂げたのが広島だった。「“3本柱”をやっつけなければいけない、という思いが強かった。でも年間を通してみると、毎年広島戦の打率が1番悪かったね」と篠塚氏が振り返る通り、広島は北別府学氏、大野豊氏、川口和久氏の先発3本柱を中心に投手王国を誇っていた。
3本柱の他にも、広島には篠塚氏が現役時代を通じて最も苦手とした投手がいた。中継ぎとして活躍していた清川栄治氏だ。変則的な横手投げ左腕で、左打者の篠塚氏には背中の方からボールが来るように見えた。“篠塚殺し”のワンポイントリリーフとして登場することもしばしばで、「(いっそ別の打者に)代えてほしいと思ったこともあった。気持ちで負けていたかもしれない」と肩をすくめる。
広島にはさらにもう1人、伏兵もいた。「キャッチャーの達川光男さんですよ。打者にいろいろ話しかけてきました」と証言するように、“ささやき戦術”を得意としていた。「少なくとも僕に対しては、(球種などについて)嘘はつかなかった。広島戦は投手云々より、達川さんとしゃべりながら打席に入った印象が強いね。楽しかったです」と言うが、対戦成績が示すように術中にはまっていたのかもしれない。
ヤクルトの先発要員の梶間健一氏は、清川氏と似たタイプ。左のサイドスローから繰り出す曲がりの大きなカーブに、篠塚氏は「当てるのが精いっぱい」とお手上げだった。
阪神で顔を見るのも嫌だったのが、先発左腕の湯舟敏郎氏。「カットボールを投げるようになってから、タイミングが全然合わなくなった。たぶん、ヒットは1本か2本しか打ってない」と言うほどだ。100キロ超の巨体の右腕、中込伸氏のカットボールにも苦しめられた。ただ、この2人は篠塚氏の現役晩年の1990年代に入ってから活躍し始めたため、対戦が少なかったのは幸いだった。