創部57年目の東海大に初の女性主務 名将が惚れ込んだ「き・め・ごころ」
巨人・原辰徳監督、現役では菅野智之投手ら多く輩出した東海大の小川美優さん(2年)
昨年の夏のことだった。東海大1年生マネージャーだった小川美優さんは、いつも通りに野球部寮で食事をしていた。社会人野球でも実績のあった東海大・安藤強監督や先輩マネージャーらとのテーブルでの話題は、最上級生が不在となる来年の主務は誰にするのか? というもの。まさか1964年の野球部創部から初の女性主務に抜擢されるとは思ってもいなかった。
「最初は驚きました。その時の話し合いの中で決まったわけではないのですが、その後から、だんだん4年生主務の仕事を教わることになって……」。2年生になった時、“大役”に任命された。
小川さんは埼玉栄高校時代に硬式野球部のマネージャーを務め、東海大に進学。高校では東北(宮城)、九州国際大付(福岡)の監督として春夏計11回甲子園に出場した若生正広監督のもとで学んだ。03年夏、東北でダルビッシュ有(現カブス)を擁し、甲子園準優勝した名将は07年に黄色靱帯骨化症の難病と闘っていた。足が不自由で思うように動くことのできない監督のそばで小川さんは支え続けていた。
その頃から、小川主務の様子を安藤監督が見ていたことも、抜擢された大きな要因だった。安藤監督は「彼女を高校生の時から見ています。若生監督の対応は素晴らしかったですし、大学生になっても、電話や来客の対応に一生懸命。私も(社会人野球の)ホンダの時にマネージャーの経験があります。主務は一番、外部の人と会う役割を担います。きっといい方向に行くと思いました」。2年生、それに初の女性主務であることなんて、何の障害でもなかった。
安藤監督は続けた。「き・め・ごころ、です。『き』は気遣い、『め』は目配り、『ごころ』は心配り」。小川さんに備わっていたものに、指揮官は確信を持っていた。ただ小川さんからすると「親からすごく言われるんですが、実家にいるときは自分は何もしないので、親から『外でできているのか不思議』だと。家で私は気が利かない方です」と苦笑いを浮かべるところも興味深い。人を“想う”気持ちが自分を突き動かしてくれるのだ。「想」という文字も「木」「目」「心」(きめごころ)と書く。多くのプロ野球選手、一流の社会人選手を育てた安藤監督には野球部の未来が見えていたのかもしれない。
各学年のマネージャーを取りまとめるのが主務の役割。財務や日程調整、部員への連絡、来客の対応、リーグ戦、試合の準備…活動は多岐に渡る。朝早い時は午前5時に起床。遅い時は深夜0時をまわり、自宅に“仕事”を持ち帰ることもある。コロナ禍で春のリーグ戦が中止になり、部員が帰省していた時も再開する時の準備で忙しく時間は過ぎていた。そんな日々を支えたのは、昨年のリーグ優種の経験だった。
「マネージャーをやっていて、良かったなと思えた瞬間でした。高校の時は埼玉県大会でベスト8。なかなか勝てなかった。若生さんのもとでマネージャーができたこともやっていて良かったと思えましたが、もうマネージャーは高校で辞めようと思っていました。ただ、やっぱり辞められなくて……。続けた大学で優勝ができたので本当に嬉しかったです」