長嶋監督が直電して病院に“懇願”…元巨人・篠塚氏の入団左右した高校時代の入院秘話
甲子園V後に襲ったアクシデント「プロ野球の夢を諦めかけた」
甲子園大会優勝の栄光に浴した直後、予期せぬ挫折が待っていた。秋の県大会1回戦当日。朝目覚めると、普段かいたことのない寝汗で体がぐっしょり濡れていて、熱もあった。試合もまさかの敗退。その後1週間微熱が続いたため、銚子市内の病院でレントゲン撮影を行った。すると、左胸の部分には何も映っていなかった。
「肺に水がたまる肋膜炎でした。先生によると、肺には一升瓶3本分の水が入るらしい。子供心に『夏に水を飲み過ぎたかな』と後悔しました」と苦笑。投薬しながら、3か月もの入院生活を余儀なくされることになった。
外出も禁じられ、「一瞬、プロ野球の夢を諦めかけた」という篠塚氏だが、ベッドの上に寝転んでいるだけではなかった。ベッドから天井をめがけて、延々と硬球のボールを投げ続けたのだ。やってみればわかるが、寝転んだまま天井へ向かってボールを投げると、はるか頭上の方や足の方へ返ってきて、顔付近へ戻すのはなかなか難しい。「図らずも、それが後々スローイングに役立った。指先の感覚が研ぎ澄まされ、肘の出し方を覚えて、自然にスローイングに自信がついた。決して無駄な3か月ではなかった」と感慨深げに振り返る。
「天井すれすれに投げてみたりもしました。たまに天井にぶつけてしまい、上の階の病室から文句を言われたこともありましたよ」。プロ入り後、二塁手としてゴールデングラブ賞に4度輝くことになる下地が、ここで作られた。
篠塚氏はこうした経験から、今夏コロナ禍で甲子園につながる大会を奪われた高校球児たちにも、「とても気の毒だけれど、どんな状況でも、やれることは必ずある。野球を続ける気持ちがあるなら、常にそれを探してほしい」とメッセージを贈りたいという。
3年生の時には甲子園に出られずに終わり、当時の監督と相談した結果、社会人野球の日本石油(現ENEOS)に進む方針を固めた。「入院を経て、卒業後すぐにプロ入りするのは体力的に難しいと考えた」。ところが、ドラフト会議1週間前、巨人から1位指名の方針を伝えられ、状況は一変する。当時の長嶋茂雄監督(現・巨人終身名誉監督)が、2年生の時の篠塚氏の打撃をテレビ中継で見てほれ込み、球団幹部やスカウトが「体力的に無理」と反対するのを押し切って指名を決めたのだった。
「後に聞いた話ですが、長嶋さんは病院に電話をかけて、僕の病気が完治していることを確認した上で、『他球団が問い合わせてきたら、まだ治っていないと言ってくれませんか』と頼んだそうです」と篠塚氏。その後、19年間にわたって巨人で活躍する原動力となったのは、「長嶋さんに恥をかかせられない」という思いだったという。
ところで、篠塚氏には高校時代の思い出として、忘れられない光景がある。2年生の秋から冬にかけて3か月入院し、その後2か月半は体を動かさず静養。3年生の4月1日から、練習を再開できることになった。「早朝、バッティング練習を始めると、校舎の窓から同級生たちが顔を出して、声援を送ってくれた。感動しちゃって……」。
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