「その場にいることがきつかった」 阪神2位のJR東・伊藤の胸に残る“18歳の記憶”
投球の変化、変わってきた奪三振の概念
高校時代から求めていたのは球速アップが主だった。最速139キロだったストレートは下半身強化で、大学卒業時には143キロになっていた。三振も「少し力を入れられば取れた」が上のレベルではそうも行かない。「三振を取るのがどんどん難しくなってきた」。大学では球速のほか「相手を見ながら、嫌がるピッチング」を学びながら、ゲームメークができるようになっていた。
もう一段階上の選手になるために、伊藤は社会人野球チームに進むことを決意した。行く先は多くのプロを輩出するJR東日本。この2年間で投球について学んだのは、より勝てる投手になるための「力の抜き方」だった。山本浩司、坂上拓両投手コーチの指導を受け、さらに成長を遂げた。
「(山本)浩司さんに『9イニングをそんなに1人1人、全力で投げていたら持たない』と言われました。僕のスタイルは打者1人を全力で抑えにいくという感覚だったので」
高校時代から備わる奪三振術に、大学で相手を見ながら投球する駆け引きを学び、社会人では先発として長いイニングを投げられるようになった。パフォーマンスを持続する術を習得し、球速もさらに3キロアップした。さらに“社会人”としての経験も伊藤の成長を後押しした。
「社業ではパソコンを使う業務もありましたし、一人の社会人としての礼儀作法や時間の使い方を学びました。時間に対する厳しさは植え付けられました。“1時間前行動”は当たり前。早く準備をする習慣は野球でも生きましたし、この(都市対抗野球出場やドラフト指名の)ように結果にも出てきたので、社会人野球に進んで良かったと実感しています」
18歳の時の悔しさは忘れていない。でも、当時のことを思い返すと「自分は子供でしたねー」と今は笑い飛ばせる。高校時代、食事を共にしたチームメートの前でも「絶対に俺はプロに行く」と信念は曲げない、物静かな男が密かに燃やしていた闘志はこうして形となった。
阪神2位という高い評価を受けたドラフト指名後、伊藤のスマートフォンが鳴った。高校や大学の同級生たちからの激励が相次いだ。これまで2度経験したドラフト会議後とは違う、味わい深い瞬間だった。25日の都市対抗野球初戦、三菱自動車岡崎戦9回2失点完投勝利を収め、好発進。試行錯誤した6年に及ぶアマチュア野球の舞台は今回がラストとなるだろう。最後はいたい、歓喜の輪の中心に――。
(楢崎豊 / Yutaka Narasaki)