迫る津波…生死分けた“咄嗟の右折” 柴田高の元主将、甲子園初出場の弟に託す夢【#あれから私は】

兄は震災経験を経て消防士を目指すことを決意

 2011年3月11日は金曜日だった。航汰さんと隼翔は、翌12日から少年野球チーム「大街道キッズ」で本格的に野球を始めることになっていた。それどころではなくなったが、「野球をやりたいという気持ちは大きかったですね」と回想する。そして、「これ、すごい話なんですけど」と切り出した。

「家の1階にあったのに、野球道具、残っていたんですよ。土日の練習に行くためソファのところに準備していたんです。実際、津波が来た時に家の中で何があったかは分からないですよ。でも、バッグが浮いたためか中のグラブが無事だったんです。2つとも。なので、震災前に買ったグラブを使っていました」

 神様がいるのなら「君たちは野球をやるんだ」と伝えたかったのかもしれない。10年後、弟は甲子園の土を踏むことになるのだから――。

 航汰さんは門脇中(今年度で閉校)でも野球を続け、県選抜入りを果たした。同級生の野球部員は小学生の頃から2人だけ。連合チームも経験した。顧問の教諭や連合チームの仲間、保護者、指導者らのお陰で「野球をやり切ることができた」と感謝する。高校は、父・隆弘さんの母校である柴田を選んだ。隆弘さんはロッテの小坂誠育成守備・走塁コーチと同級生で一緒にプレーしている。石巻市と柴田町は約60キロ離れているが、隆弘さんが柴田町の隣の岩沼市にある日本製紙岩沼工場に勤務しており、社宅住まい。通学や生活に適してもいた。中学3年時には春季県大会で柴田の試合を観戦。サヨナラホームランで柴田が勝った。この時、心を決めたという。

 2013年夏の宮城大会で準優勝するなど、県内の公立強豪校で甲子園に挑み続けた高校野球。最後の1年は新型コロナウイルスに翻弄された。休校期間中、弟とキャッチボールしながらも、ぽっかりできた時間で将来を考えた。就職か、進学か、野球はどうしようか。考えを巡らせる中で、「野球は高校で一区切りをつけ、2年生くらいから考えていた公務員を目指そう」と決断した。

「18年の人生で、いろんな経験をさせてもらいました。中でも東日本大震災は自分の中で一番の体験。あの時、僕たちをいろんな方が助けてくれましたが、中でも自衛隊員や警察官など、多くの公務員の方々の力は大きかった。自分も震災を経験した人間として、今後、何かあった時に一人でも多くの人の命を救えるような仕事に就きたいと思いました。周りから求められる、必要とされる人間になりたい。今は消防士になりたいと思っています」

大舞台で「思い切りプレーしている元気な姿を見せたい」

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