津波に飲まれた校舎は震災遺構に 「あづまっぺ」から再スタートした気仙沼向洋野球部【#あれから私は】

新校舎に掲示されている震災当時の様子などが分かる展示物を見る小野寺氏(左)と川村氏【写真:高橋昌江】
新校舎に掲示されている震災当時の様子などが分かる展示物を見る小野寺氏(左)と川村氏【写真:高橋昌江】

2011年4月10日、部員たちに野球道具が渡された

 2011年3月28日、小野寺氏は気仙沼向洋を訪れた。変わり果てた校舎にグラウンド。かまぼこ形状の屋根も床もさらわれていった体育館。あの日、校舎で一夜を過ごした教員たちが脱出のために使用した船を写真に収めた。川村氏と会ったのは、本吉響の生徒の安否確認で避難所を回っている時。2人の母校・階上中で避難所の運営に携わっていた。

 4月、小野寺氏の耳に「もう野球ができないんじゃないか」と言っている生徒たちがいるという情報が入った。これはなんとかしないといけない、と思った。「あづまっぺ(集まろう)」。東北各地、日本全国から野球道具も届いていた。

「まずは一度集まって、元気な顔を見て動いてみよう」と、4月10日、自身が監督をする本吉響、全部員がスパイクのまま階上中に避難して無事だった気仙沼向洋、気仙沼西(18年閉校、気仙沼と統合)の部員を集め、野球道具を渡した。学校が再開すると、気仙沼向洋は本吉響、気仙沼西、米谷工(15年閉校、他校と統合し、登米総合産業)に分かれて授業が行われ、放課後は本吉響に集合し、練習した。

 7月10日。気仙沼向洋と本吉響は同じ日に宮城大会1回戦を迎えた。黒川と戦った気仙沼向洋は1-2の5回、一挙5点を挙げて逆転。6-2で勝利した。その試合を終えると、すぐにバスに乗り、東北福祉大学野球場から15キロほど離れた仙台市民球場へ。本吉響の試合が始まっていた。

 小野寺氏は「点数を離されていたのが、気仙沼向洋が来てから盛り返した」と笑う。「ガンガン、歌いました」と川村氏。部員数が少ない本吉響にとって、応援歌のある後押しは初めて。力がみなぎった。5-8で白星はつかめなかったが、小野寺氏は「いい試合でした」と振り返る。実は、気仙沼向洋が4強入りした09年も決勝に進出した10年も、本吉響の部員たちはスタンドで応援していたのだった。

新校舎が2018年7月に完成、野球部は専用球場で練習に励む

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