現代にも続くファンと共に歩むプロ野球 芽吹いていた70年前のパ・リーグ

1950年4月8日の紙面【写真:(C)日刊スポーツ】
1950年4月8日の紙面【写真:(C)日刊スポーツ】

「パ・リーグの黄金カードは毎日対南海と言われていました」

 これまでの連載でも触れたが、2リーグ制が誕生するにあたり、既存球団と新規球団の間で選手の確保に向けた動きが活発化した。リーグMVPを獲得した別当薫を筆頭に、阪神から多くの選手が移籍した毎日のような球団があった一方で、チームの編成に苦しんだ球団もあったようだ。

 こうした背景を加味しつつ、当時のパ・リーグとセ・リーグの観客動員数について見ていきたい。当時の4月5日時点でセ・リーグの1試合平均の観客数が9160人だった一方で、パ・リーグは1試合平均で1万2200人と上回っている。この背景には当時のセ・リーグの人気カードだった「巨人対阪神」「巨人対中日」の後楽園球場での2試合がいずれも悪天候で中止になったことなどが挙げられている。井上さんはこうした「黄金カード」について次のように説明する。

「当時はフランチャイズ制度がないので、球団別でどれだけ人気かというのを推し量るのは難しいのですが、巨人が強かったという点はありますね。あとはパ・リーグだと南海が昔からあるチームですし、1リーグ時代でも優勝しているところでもあるので、人気があったというのは推測できます」

「パ・リーグの黄金カードは毎日対南海と言われていましたね。この試合となると観衆が集まってきたといいます。やはりパ・リーグの中でも戦力の充実していたチームでしたので、この2チームの首位争いを目当てに来る人もたくさんいたのではないかと考えられます。(人気カードとその他のカードで差があった?)そうですね。特に新しくできた球団でそれほど戦力の整わなかったところは厳しい状態だったと思います」

新しいプロ野球の形を祝う「前夜祭」のようなイベントも…

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