「トルネード」→「UFO投法」に進化 非力で投手転向…“個性派”に見出した生きる術
直球は140キロ前後「バッターから自分のフォームがどう見えるかを最優先に」
山内氏のストレートの球速は、プロ入り後でも140キロ前後に過ぎなかった。それでもスライダー、フォークなどの変化球を織り交ぜて、首都大学リーグでは菅野智之(東海大、現巨人)に破られるまで連続イニング無失点(48回2/3)のリーグ記録を保持していた。その原動力となった「UFO投法」は、いかに打者に打たれないかを考えた投げ方だったと山内氏は言う。
「元々それほど球は速くないことは自覚していたので、バッターから自分のフォームがどう見えるかを最優先に考えた。ボールが自分の手を離れるまで、いかにバッターに見えないようにするか。発想としては、昔オリックスにいた星野伸之さんや、今ならソフトバンクの和田毅と同じ考え方です。一度止まるような動きで、バッターのタイミングを合わせにくくする、という意図もあります」
シーズン中に疲労や不調などで苦しんだ際や、さらに晩年に勝てなくなった時期でも、投球フォームを見直す考えはなかったという。周囲の目を引いた個性的な形は、投手にとってもっとも重要な部分でもあった。
「UFO投法で肘を上げた形は、そこがスタートの形でもあるので、調子が悪くなかったからといって、腕の高さを上げたり下げたりすることはなかった。ピッチャーにとっての立ち姿、足を上げて立つ形というのは、非常に大事なところだからです。そこさえ決まれば、あとは投げる形はみんな同じ。逆に言えば、そこが崩れてしまうと、その後も全て崩れてしまう。自分にとって、その一番大事なところが、肘を上げて止まるような形だったわけです」
ルーキーイヤーから2年連続で2ケタ勝利をマークした山内氏だが、その後は故障もあり、勝ち星が伸びなくなり29歳の若さで現役引退となった。勝てなくなった時期には、周囲から投球フォームの見直しなどの声も出たというが、山内氏は最後まで「UFO投法」を貫き通した。
「自分は、最初からせいぜい140キロぐらいのピッチャーで、極端に言えば、普通の投げ方をして同じ球を投げていたら、打たれていたでしょう。バッターから球が見づらい、タイミングが合わせづらい、あのフォームだったからこそ、あれだけの成績が残せたと思います。だからそれを変えることを考えなかったと言えば嘘になりますが、やっぱり自分にはこの形しかないと思い直して、最後までそのままでやりました。今思えば、周りからキャッチーな名前を付けられて話題にしてもらったのも、プロとしてはいいことだったと思います」
プロ8年間の通算成績は184試合登板で45勝44敗1セーブ、防御率4.40。決して特出した数字ではないが、「UFO投法」のあのピッチャーと言われれば、野球ファンのみならず、山内氏のことを思い出す人は少なくない。