早大ドラ1“三羽ガラス”の背中を追った左腕の転機 武器となった“直伝”の変化球

早大卒業後、ヤマハで10年間プレーした大野健介さん【写真提供:ヤマハ】
早大卒業後、ヤマハで10年間プレーした大野健介さん【写真提供:ヤマハ】

斎藤佑樹さんからツーシーム、楽天・福井からスライダーを習得

 多彩な変化球を操る斎藤さんからはツーシームを教わった。変化球の習得は得意ではないと語る大野さんだが、斎藤さん直伝の球種は新たな武器になった。「大学4年の時に一番思い通りに投げられたのがツーシームでした。1球で内野ゴロに打ち取りたい時や、カウントを整えたい時など、投球の軸になっていました」。握り方や投げ方のコツを教わり、自分の持ち球にした。

 スライダーは福井に教わった。淡々とアドバイスする斎藤さんと対照的に、“兄貴肌”の福井は丁寧に解説。助言通りに縫い目にかける指の位置を変えると、やや苦手意識を持っていたスライダーが改善した。変化の幅を変える方法も教わったという。大野さんは「福井さんのスライダーは1度浮き上がってからブーメランのように曲がっていました。回転数が多くてパワーがあるスライダーでした。ドラフト1位でプロに行く先輩に直接教えてもらえる恵まれた環境でしたね」と振り返る。

 大野さんは早大4年の時、秋のリーグ戦で防御率1.53の好成績でタイトルを獲得している。プロ志望届を出すか迷った時期もあったが、頭をよぎったのは3人の先輩の存在だった。プロ入りする投手の力を知っているからこそ、社会人でレベルアップしてプロを目指す道を選んだ。

 ヤマハに所属してから最初の3年ほどはプロを目標に掲げた。だが、壁は厚かった。ヤクルトの石山泰稚投手、中日の鈴木博志投手、巨人と楽天でプレーした池田駿さんらの強力投手陣に割って入れず、中継ぎやワンポイントでの起用が続いた。「都市対抗野球の初戦で先発を任されるくらいではないと、プロで活躍はできないと考えていました。社会人は選手の平均値が高くて、自分より能力の高い選手がたくさんいました」。大野さんは「ヤマハで日本一」に目標を修正した。

 夢だったプロ野球選手にはなれなかった。それでも、ヤマハで10年間プレーし、32歳まで大好きな野球を続けられた。大野さんは「悔いはないですね」と充実感を漂わせる。「三羽ガラス」の背中を必死に追いかけ、変化球に磨きをかけた早大時代は、野球人生を振り返る上で欠かせない時間だった。

(間淳 / Jun Aida)

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