古葉監督も忘れていた挑戦 V旅行のコンペにバットを持参した“両打ちの首位打者”
半分の距離で、捕手の防具や小手を着けて打撃練習を行った
まずは猛練習を課した。カープの寮から内田氏の住まいは車で10分弱で、広島にいる時は毎日通った。隣接する室内練習場で、1時間半で1000球近くマシン打撃に臨ませた。マンツーマンでの特訓で、試合前や遠征先では右でしか振らせず、結果的にチームには隠す形になった。
「速いボールを打つには、後ろを大きくしていては間に合いません。いかにして反応を早くさせるか」。マシンと打席の間隔を縮めていき、最終的には半分くらいに。怪我防止のために捕手の防具や小手を着用させた上で、空振りすれば体に当たる程にホームベースに近付いて立たせた。通算3283安打&660本塁打のウィリー・メイズがキャンプで行っていたという練習法を参考にした。内田氏は新外国人の獲得調査で渡米経験があり、本場の野球事情にも精通していた。
最初の1週間はかすりもしなかったが、たまにチップが交じってきた。囲んだネットの上に打球が当たる。ライナーが飛び出す。振れば振るだけ段階が上がっていく。「バットの軌道が一番無駄のないように。感覚を体に染み込ませました」。インサイドをさばくため脇が開かぬようゴムチューブで縛り付けた。武器の足を生かすために、太く重いバットを投球にぶつけてゴロを打った。打撃のフォームもスタイルも目指す形が固まってきた。
当時クライマックスシリーズはない。順位が確定すると、将来を見据えてシーズン終盤の残り試合で若手を登用する場合が多かった。広島が2位だった1985年、古葉監督は内田氏に「打たせたいヤツを出していいぞ」と促した。中日戦で相手投手は快速球が武器の小松辰雄。内田氏は、成果を試すには絶好の機会とばかりに正田を推薦した。監督は「おう、出せ」。ところが内田氏が「左で打たせます」と告げると、「えっ、大丈夫か」と驚いて聞き返してきた。シーズン当初のスイッチ転向の話を完全に忘れていた。