会社激怒のドラフト指名「どうするんやお前」 3位なのになぜか“ドラ1以上の契約金”
阪急、オリックス、中日、阪神でプレーした南牟礼豊蔵氏が現役時代を回顧
ナゴヤ球場に響き渡った「トヨゾー」コール。1991年5月に南牟礼豊蔵外野手はオリックスから中日に移籍し、インパクトのある活躍でドラゴンズファンを魅了した。「あの年が一番、野球をやってきて良かったと思えるシーズンでした」。逆を言えば、それ以外の年は……。毎年多くの選手がプロ野球界を去る。南牟礼氏は現在、兵庫県西宮市で「みなみむれ接骨院」を開業し、多くの人と接する日々だが、ここまでの道のりは壮絶だった。
1981年ドラフト会議。社会人野球の電電九州に所属していた南牟礼氏は阪急(現オリックス)から3位指名を受け、入団したが「あまりいい思い出はなかった」といきなり言い切った。そして、何とも言えない表情でこう語った。「監督やコーチに育てられた感覚がないですし、上田(利治)監督には南牟礼とか豊蔵とか、名前で呼ばれたことがなかった。(背番号の)『32番』とか、『あんた』とかでしたから……」。
期待の星、のはずだった。まさか、そんな世界とは想像していなかったという。当初はその年にプロ入りするつもりはなかったし、ドラフトにかかるとも思ってもいなかった。電電九州も出す気はなかった。他に2選手が大洋(現DeNA)から指名される予定だったからだ。そんな時、阪急が熱心に誘ってきた。「ドラフトの10日くらい前に阪急の山本スカウトの話を聞くことになったんです」。
山本スカウトからは「君は足も速いし、打撃もいい。ウチはもうひとり、簑田(浩二)みたいな右バッターの外野手が欲しい。上田監督がどうしても欲しいって言っている」と口説かれた。それでも「チームがこんな状態ですから、簡単に行きますとは言えません」とクビをタテに振らなかった。すると「どうしたら来てくれるか」と食い下がられた。そう言われてもすぐには答えられなかったが、短い時間で一生懸命考えた。