社長の「いらん」に「じゃあ、やめますわ!」 二転三転の監督人事…割食ったエース
小松辰雄氏は1994年限りで引退…「もう1年」の訴えも却下された
かつて中日のエースとして君臨した野球評論家の小松辰雄氏の公式戦ラスト登板は1994年8月27日のヤクルト戦(神宮)だった。先発して1回2/3、4失点でKOされて終わった。功労者なのに本拠地ナゴヤ球場で公式戦フィニッシュとならなかったのは事情があった。当初はやめるつもりがなかったこと。そして最終戦で決着した「10・8」の巨人戦が関係していた。
8月27日に神宮でKOされた後、小松氏は高木守道監督に「お前、来年もやりたいんだろ」と聞かれ「やりたいですね」と答えたという。すると「今年はチームももう駄目だから、若いヤツにチャンスをくれるか、3軍で調整してくれ」と言われた。中日はその日で泥沼の8連敗。高木監督の同年限りの退任も一度決まり、いよいよ苦しくなったところでの話に「わかりました」と了承した。
それから、しばらくしてから球団に呼ばれた。本田威志総務から「来年は星野(仙一氏)が監督をやるから、コーチをやってくれないか」と言われた。事実上の引退勧告だった。小松氏は「中山(了球団)社長と話をさせてほしい」と頼んだ。会って「もう1年、やらせてほしい」と訴えたが、社長は首を縦に振らなかった。「『じゃあ小松辰雄って選手はいらないんですか』って聞いたら『いらん!』と言われて『じゃあ、やめますわ!』って」。それで引退が決まった。
その後、高木監督から「俺はそんなこと知らなかった」と電話がかかってきた。「じゃあ俺は来年できるんですか」と聞いたら「俺は構わん」と。でもそれから3日くらいして、また電話がかかってきて「俺はいいんだけど、会社がね」って言うから「『だからやめるって言っているじゃないですか』って。まぁそんなこともあったね」。正直、やめたくなかったという。「あと1年やれば、鈴木(孝政)さんの17年を超えて18年になったし、2000イニングとか、1500奪三振とか目標の数字もあったからね」と今でも無念の思いを隠さない。