会話は挨拶だけ…コーチから“無視”された打者 今になって理解できる「真意」
浅井樹氏は6年目の1995年に開花…結果出ずコーチに“無視”されたことも
元広島外野手で、現在はカープ・ベースボールクリニックコーチを務める浅井樹氏はプロ6年目の1995年にチャンスをつかんだ。同期入団で同い年の前田智徳外野手が5月23日のヤクルト戦(神宮)で右アキレス腱を断裂して離脱したシーズンだった。6月15日の横浜戦(横浜)で有働克也投手から右中間適時二塁打を放って、プロ初安打、初打点をマーク。これをきっかけに頭角を現していったが、そこまでの道のりにもいろんなことがあった。
もう今年でクビだろう。1軍で結果を出すまで、ずっとそう思いながらの日々が続いていた。「1年目はアメリカに留学させてもらいましたが、2年目、3年目、4年目、5年目と駄目だったわけですからね。普通だったら、クビになってもおかしくなかったでしょ」。いい時がなかったわけではない。「2年目の黒潮リーグ(秋の2軍教育リーグ)で13試合くらいやってホームランを7本打ったんです。当時130試合だから年間70本ペースじゃんって自信を持ったんですけど、続きませんでしたからね」。
2軍では三村敏之監督と内田順三打撃コーチに鍛えられた。「内田さんには付きっきりでやっていただいたのに結果が出せなくて……」。そんな熱心な内田コーチが突然、教えてくれなくなった時期もあったという。「1日の会話が挨拶しかないとかね。でも、これは内田さんに聞いてはいないんですけど、僕を1回あえて突き放すってことだったと思う。自分で考えてみろってね。僕もコーチ経験があるけど、突き放すことも大事じゃないですか。ホント、内田さんには感謝しかありません」。
それでもどうしても結果が出ない。4年目、1993年4月18日の巨人戦(広島)で1軍初出場。延長10回に左翼の守備に就いて、その裏の打席では石毛博史投手に三振だった。「ボールが見えなかったです」。この年、1軍では2試合の出場で2打数無安打に終わった。5年目、1994年シーズンは1軍出場なし。三村2軍監督は1軍監督になり、内田コーチは巨人のコーチに移籍。今度は安仁屋宗八2軍監督と長内孝2軍打撃コーチにお世話になった。