闘病の父のために「死に物狂いでやった」 社会人で“大変身”…実現させたドラ1指名

東芝2年目に大躍進、1983年ドラフトで2球団がドラ1競合…広島へ

 川端氏は「きつかったけど、絶対プロになるという目標がその日、その日を支配していったと思う。自分自身でやる練習もやったし、結構ストイックになったかもしれない」と話す。それまでとは野球への姿勢が違った。「飲みに行くこともほとんどなくなったし、誘いを断ることを覚えた。東芝のトレーニングコーチにいろいろ指導されて、たばこも吸わなくなった……」。

 仕事もこなした。「僕は放送機営業部。通常は午前中だけで、計算とかをやっていましたけど、たまに1日勤務もあって、いいテレビカメラができましたよ、いい放送機できましたよ、いいスピーカーがありますよって各テレビ局を回りました。芸能人に会えるんで、これが楽しみでねぇ……。歌番組の音合わせでは八代亜紀さんとかいろんな方がいましたねぇ。ドリフターズの舞台作りも見ました。いかりや長介さんがいろいろ指示しておられましたよ」。

 そんな東芝生活2年目の1983年、川端氏は大躍進を果たす。「この年、僕は負けなしでした。15勝0敗、4セーブか、5セーブだったと思う」。東芝は都市対抗を制覇。川端氏の法大時代の同級生である池田親興投手(元阪神、ダイエー、ヤクルト)が日産自動車から補強選手で加わっての優勝だった。川端氏は2回戦の電電東北戦と準決勝の新日鉄広畑戦で勝利投手になった。日本選手権は準優勝に終わったが、川端氏は2勝を挙げて、敢闘賞を受賞した。

 この年の社会人ナンバーワン右腕と言われた。プロは大洋以外の11球団がドラフト上位候補として興味を示した。高校、大学の時には思ってもいなかったプロ野球の世界。父・治さんの病気を知ってから、気持ちを入れ替えて野球に取り組んだ成果が出た。1983年ドラフト会議では広島とロッテの2球団が競合し、広島がクジを引き当てた。「親父は僕がプロに入って6年目に亡くなったけど、いいところは見せてあげられたと思う。自分の運命を変えてくれたのは父親なんです」と川端氏は明かした。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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