闘病の父のために「死に物狂いでやった」 社会人で“大変身”…実現させたドラ1指名

広島で活躍した川端順氏【写真:山口真司】
広島で活躍した川端順氏【写真:山口真司】

川端順氏は法大から東芝へ…病気発覚の父へ「いい夢を」死に物狂いの2年間

“地獄の練習”を乗り越えて、ドラフト候補にのし上がった。元広島投手で現在は徳島・松茂町議を務める川端順氏は法大から社会人野球の東芝に入社し、野球に初めて本気になった。「大学4年の時に親父の胃がんが分かって、親父の夢って何かなって考えて、プロ野球に行きたいなって思ったんです」。法大時代は目立った活躍もできなかった右腕が実際に変わった。東芝2年目の1983年には社会人ナンバーワン投手と言われるまでになった。

「ウチの親父はバスの運転手だった。僕のために一生懸命でした。大学は特待生ではなかったし、授業料や月々の仕送りなど大変だったと思います。苦労をかけたと思います。親父のがんは、わかった時にはステージ4とか5だった。ようやくそこでバスの仕事をやめたんです」。川端氏は声のトーンを落としながら当時を振り返った。「親父はプロ野球では巨人の長嶋さん、王さん、広島の山本浩二さん、衣笠さん、この4人が好きだった」。

 一念発起した。「それまでの僕は正直、野球でそんなに努力していなかった。ホンマに人が見てないところで練習するなんて一切なかった。そういう性格だったんでね。その考え方を変えた。親父に最後、いい夢を見せてあげたいなとの思いで、東芝の2年間は死に物狂いでやりました」。

 そもそも進路を東芝に決めたのも、当時の鈴木義信監督に「お父さん、入院されているよね、お父さんの夢をかなえたらどうだ。たぶん、プロ野球に行かせたいはずよ。2年間、ワシに預けろ」と言われたのが決め手だった。2年でプロに行ける。川端氏は「ほかのところからも誘われていたが、鈴木さんの言葉を信じた」という。

 東芝の練習はハードで有名だった。「あの頃、プロは広島、アマは東芝が一番練習するチームと言われていたけど、確かにすごかった。朝5時に起きてグラウンドを10周走って、懸垂10回を2セットしてから会社に行くのがノルマだった」。合宿所とグラウンドは鶴見、職場は新橋。「午後に鶴見へ戻って練習は2時頃から始まり、いったん6時前に終わって、シャワーを浴びて、ご飯を食べて、そこからウエートトレーニングなどを9時くらいまでやって、寝る。その繰り返し」。

東芝2年目に大躍進、1983年ドラフトで2球団がドラ1競合…広島へ

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