「守っていてもやばいと」 病とも戦った3年夏…甲子園への道阻んだ原辰徳の存在
元広島の長内孝氏は桐蔭学園1年夏からレギュラーを掴んだ
甲子園は1学年下のスター選手が主力の学校に阻まれた。元広島の強打者で「本格派 炭焼やきとり処 カープ鳥 おさない」(広島市に2店舗)のオーナー・長内孝氏は桐蔭学園時代、1年時からレギュラーの座をつかんだが、全国大会出場はできなかった。最後のチャンス、1975年の3年夏は神奈川大会準々決勝で敗退。相手は甘いマスクも重なって大フィーバーを巻き起こした原辰徳内野手(現巨人監督)を擁する東海大相模だった。
1973年4月、桐蔭学園に進学した長内氏は野球部のレベルの高さを感じたという。「硬球が初めての僕はフリーバッティングで内野の頭を越えなかったけど、同級生たちはガンガン打っていたからね。こりゃあ、とんでもないところに来たと思ったよ」。ついていくには練習するしかなかった。ランニング量もハンパではなかった。入学当時90キロだった体重は最初の1か月で10キロも減った。だが、くじけなかった。そんな状態から巻き返してレギュラーになった。
「チームには(各ポジションに)1番目、2番目、3番目みたいな順番があった。僕は5月から一塁手になって、当然、その3番目。上には3年生が2人いた。ただし、試合で1番目の人が失敗すると、その人は一気に3番目に落ちる仕組み。そうなると2番目が1番目になって、3番目が2番目に、という具合。僕の場合、たまたま上の2人が練習試合で失敗して、1番目になれたんです」と謙遜するが、その位置をキープできたのは実力なしではあり得なかっただろう。
その後も試練はあった。「大会前の合宿に入る日におたふく風邪になったんです。40度の熱が出て、またやせた。飯も食えなかった。入った時はデブ、デブって言われていたのが、とうとう68キロになってしまって、もうフラフラだった」。夏の大会には間に合い、7番・一塁で出場したが「本当は出られるような状態じゃなかった」という。そんな中、チームは決勝まで勝ち進んだ。惜しくも準優勝に終わったが、1年夏から貴重な経験を積んだ。
高3夏は神奈川大会準々決勝で、原辰徳がいた東海大相模に敗退
1年秋からは4番を任された。秋の県大会もチームは決勝に進出。だが、日没再試合の激闘の末、横浜に敗れた。1974年の2年夏は優勝候補と目されながら、4回戦で慶応に敗戦。2年秋の県大会は準々決勝で日大藤沢に1-12で大敗した。1年夏には目前にあった甲子園がどんどん遠くなった。今度こその思いで臨んだ3年夏も準々決勝で3番・原辰徳の東海大相模の前に4-8で散った。
長内氏は悔しそうに話す。「3年の夏、僕は全く活躍していない。大腸カタルになって、下痢、嘔吐、下痢……。守っていてもやばいと思って、ベンチに帰るとすぐトイレに行っていた。その年の開会式は雨の中で行われて、風邪も引いて、高熱も出たり、とにかく体調が悪かった。東海大相模戦の時はまぁまぁ治っていたけど、全然力が出なかった。僕が最後のバッターだった」。
1学年下になる原氏のことももちろん印象深い。「すごい騒がれていたからねぇ……。でもね、辰徳は最初、桐蔭(学園)に来ると言われていたんだよ。桐蔭の監督が言っていた。『(原氏の父で、当時東海大相模監督だった)原貢さんから頼まれた。来るかもしれないよ』って。結局、東海(大相模)にいったけどね」。もしもチームメートになっていたら、また違うドラマが起きていたのだろうが……。
「辰徳は、神奈川で一緒に戦った先輩、後輩ということで、会ったらいつも『先輩、先輩』と言って立ててくれる。僕が店を出した時も(巨人の)コーチ陣を連れてきてくれたんですよ」。甲子園には行けなかった長内氏だが、原氏がいる東海大相模との対戦も高校時代の忘れられない思い出だ。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)