緊張感MAXで「パッと頭に浮かんだ」金言 「力が抜けた」飛躍に繋がったサヨナラ弾
長内孝氏はプロ8年目に大躍進…117試合で18本塁打を放った
元広島の強打者、長内孝氏が飛躍したのはプロ8年目の1983年シーズンだった。117試合に出場し、打率.265、18本塁打、56打点。山本浩二氏、衣笠祥雄氏とともにクリーンアップを組むなど躍進したが、その裏できっかけとなる出来事があった。それは当時選手だった三村敏之氏(元広島監督)からのアドバイス。「ある試合で打席に入った時、三村さんの言葉がパッと頭に浮かんだ。それで、すごい力が抜けて結果が出たんです」と明かした。
長内氏は3年目の1978年にウエスタン・リーグで本塁打王と打点王の2冠に輝いた。山本一義2軍打撃コーチとの猛練習の成果だったが、1軍の壁はまだまだ厚かった。「春のキャンプから1軍に呼ばれるようになって、オープン戦では1軍で成績を残すようになったんですが、開幕するとそうはいかなかった」。5年目の1980年4月12日の巨人戦(後楽園)で1軍初出場。だが、その年は1軍で7試合出場し、6打数無安打1四球3三振に終わった。
「2軍では、ある程度見下ろしてやれていたんですが、1軍になったらうまくいかなかった。初打席の時なんて、人が見て笑っているんじゃないかと思うくらい震えていたのを覚えている」。恩師の山本一義氏は1979年に広島を退団し、1980年から近鉄コーチになっていた。長内氏は他球団の人である山本氏にも教えを請うなど、もがいたが、結果はなかなか出なかった。6年目の1981年も1軍では7試合、7打数1安打だった。
「何が悪いのかなって思って、とにかく初球から振ってみようって感じになって、ちょっと変わった」。7年目の1982年は59試合に出場した。4月29日の大洋戦(横浜)では6番・一塁で初めてスタメン出場し、3打数2安打。7回には平松政次投手からプロ初アーチを放った。だが、その年の本塁打は結局、その1本だけ。長打力が売りだけに、まだまだ物足りない結果だった。そんな状況から、ついに殻を破ったのが8年目、1983年シーズンだ。
三村敏之氏の背番号「9」を継承「うれしかったですね」
シーズン当初は代打出場が中心だったが、その後、ライトでのスタメン出場が増え、さらに加藤英司内野手のリタイアもあって、一塁レギュラーの座をつかんだ。本塁打も4月に1本、5月に2本、6月に3本など、最終的には18本。「やっと、自分のしっかりしたフォームをつかんだ」という。何より精神的に強くなったが、そのきっかけになったのは1983年6月7日の中日戦(広島)で中日・小松辰雄投手から放った4号サヨナラホームランだ。
「あの試合は7回だったか、確か1死二、三塁の場面に代打で出たんだけど、緊張で力が入って三振。そのままライトの守備について1点リードされている9回にまたチャンスで2打席目が回ってきたんです」。再び緊張感がMAXだった。そんな打席で思い浮かんだのが三村氏の言葉だったという。
「以前、三村さんに『お前、何で自分ばっかり必死になりよるんや。ピッチャーのこと見たことあるか。肩で息したり、打たれたらいかんと思って必死になっている。自分ばかりの心理を考えては駄目だよ』って言われたことが、あの打席で浮かんだんです。あっそうだと思って小松の顔を見たら、もう汗びっしょりではぁはぁってやっていた。あいつも必死なんやなぁ、打たれたくないんやなぁって思ったら、すごく力が抜けたんです」。その結果が逆転サヨナラ2ランだった。
三村氏はこの1983年シーズン限りで現役を引退し、1984年から2軍内野守備コーチに就任した。そして、大きく飛躍した長内氏は三村氏の背番号「9」を継承した。「最初、球団からは6番にするって言われたんですけど、三村さんが球団に言ってくれたみたいです。うれしかったですね。『ありがとうございます』って言いにいきましたよ。『つけたからには頑張ってくれ』って言われたのも覚えています」。尊敬する先輩の番号を手にして長内氏はさらに気合を入れ直した。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)