グラウンドでは“やられたら、やり返せ” プロレス技も炸裂…激しすぎた昭和のプロ野球

元広島・長内孝氏【写真:山口真司】
元広島・長内孝氏【写真:山口真司】

中日と乱闘になれば「最初から岩本狙いだった」

 1988年9月9日に広島市民球場で大乱闘劇があった。元広島の強打者で野球評論家であり「本格派 炭焼やきとり処 カープ鳥 おさない」(広島市に2店舗)のオーナーでもある長内孝氏は、その時のこともよく覚えている。広島・長嶋清幸外野手と中日・岩本好広内野手が退場となったが「あれは最初から岩本狙いだった。もしも乱闘になったら、そうしようって話になっていた」と、今となっては笑い話として振り返る。昭和の時代とはいえ、いったい何がそこまで……?

 当時、長内氏はプロ13年目。前年の12年目(1987年)は54試合で打率.229、1本塁打、7打点と苦しみ、この年も当初は代打中心だった。だが、6番ライトで出場した7月31日の巨人戦(広島)で桑田真澄投手から1号本塁打。ここからスタメン起用が増え、8月に6本塁打と調子を上げていった。派手な乱闘が起きた9月9日の中日戦も5番レフトで出ていた。問題のシーンは6回表、0-0で迎えた中日の攻撃でのことだった。

 広島先発の長冨浩志投手が2死から中日の4番・落合博満内野手に死球を与えた。続く5番・宇野勝内野手にも厳しいコースに投げて不穏なムードが漂う。そんな中、宇野は先制2ランをぶちかました。その後だ。長冨が6番・仁村徹内野手に死球。これが引き金となった。激高してマウンドに仁村徹が走り出したと同時に両軍がベンチからグラウンドへ。一番激しかったのはショートの守備位置付近だった。

 小競り合いのレベルをはるかに超えた抗争。プロレス技も炸裂していた。中日・岩本は目を腫らし、ユニホームは無残にも破れていた。広島ナインの”計画”が実行に移された結果だった。「それまでも中日とはよく乱闘になったけど、いっつも岩本は外から蹴ったり、殴ったりしていたんですよ。それにみんなが『やり方が汚い』って怒っていた。今度乱闘になったら、あいつをつかまえよう、あいつ狙いじゃって話になっていた」。

長内孝氏がクビを押さえ、長嶋清幸氏がドロップキック

 何ともぶっそうな話に聞こえてくるが、当時はそれくらい、いったんスイッチが入ると血走った雰囲気になっていた。「あの乱闘の時、岩本は高橋(慶彦)さんのところに行っていたんかな。それを僕がショートのところに行ってつかまえた。岩本のクビを押さえていたら、山本昌が来たから『お前はあっちにいっとけ』って言った。その時にマメ(長嶋)がダッシュで来て、岩本目がけて、ボーンとドロップキックして……」。

 令和の今、もしそんな事態になったら、それこそ退場処分くらいでは済まないはずだ。だが、かつては当たり前のように起きたし、別に中日や広島に限ったことでもなく、どこの球団でも、やられたら、やり返すみたいに戦っていた。

「マメは、あの時小指を骨折していたよね。引きちぎったりとかしていたからだろうね」と長内氏は言うが、それ以上の後腐れもなかった。長嶋氏は1991年1月に交換トレードで中日に移籍し、岩本氏とチームメートになった。

 乱闘になってもグラウンドを離れれば、普通の関係に戻る。もちろん、暴力はよくないが、そんな時代だった。だからこそ、当時を知る人たちは笑い話のように振り返ることができるのだろう。チームの一員として夢中になって岩本氏にかけた強烈なヘッドロック。今では考えられない大変な時代を生き抜いた長内氏にとって、それもまた思い出のひとつになっている。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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