マスコミ注目「変な新人がいる」 アイドル投手は愚痴…奇才“ギャオス”誕生の瞬間

元ヤクルトの内藤尚行氏【写真:小林靖】
元ヤクルトの内藤尚行氏【写真:小林靖】

自宅の納屋に「マウンドという名のステージ」があった

「プロ野球に行って、いつの日か目立つんだ!」――。“ギャオス内藤”こと、元ヤクルト投手で、現・野球評論家の内藤尚行氏。プロでは1990年、1991年に2年連続開幕投手を務めた実績もあるが、片田舎の高校球児時代は「どうすれば目立てるか」ばかりを考えていた。

 当時の芸能界は、トシちゃん(田原俊彦)やマッチ(近藤真彦)の全盛時代。自らがエースだった愛知・豊川高は、高3夏の甲子園地方大会3回戦敗退。その翌日からも冒頭の野望の一心で、とにかく練習を続け、長距離を走って足腰を鍛えた。ランニングの途中には走る足を止め、トシちゃんばりに踊って足を振り上げる振付の練習も欠かさなかったのだ。

 愛知の実家は大地主の農家。納屋の中に、畑の土を盛り上げたブルペンを父親に作ってもらった。「マウンドという名のステージ」だ。高2秋に神宮大会に進出し、中央球界でそれなりに名が知られていた内藤は、1986年秋のドラフトでヤクルトに3位指名される。同年のヤクルト1位は西岡剛(近大)、2位・土橋勝征(印旛高)、4位・飯田哲也(拓大紅陵高)。地元の中日は、1位で近藤真一(愛知・享栄高)、2位で山崎武司(愛工大名電高)を指名した。

 見栄っ張りな母親の教えもあって、周囲への気遣いは忘れなかった。上京して初めて神宮クラブハウスに参上したとき、ヤクルト関係者がたまたま誰もいなかった。「せっかく持ってきたのにもったいない」と、居合わせた報道陣に地元愛知の名産「ヤマサちくわ」を挨拶代わりに配り、不思議がられた。

ヤクルト時代の内藤氏【写真:本人提供】
ヤクルト時代の内藤氏【写真:本人提供】

「アイドル荒木大輔」に対抗?…“ギャオス”誕生の瞬間

 高卒1年目。米国アリゾナ州ユマで行われた1、2軍合同の春季キャンプは、名を売りたい内藤にとって格好のチャンスだった。常にネタを探す報道陣の目に入る。「おい、あの変な新人がいるぞ!」と。

 キャンプ初日から声を張り上げた。「池山隆寛、広沢克己が凄いと言われるけど、何が凄いんだ。俺のほうがウォーミングアップから大声を出せるぞ。何倍も目立っているぞ」。

「野球がそんなにうまいと思っていなかった」「プロで大活躍できると思っていなかった」と言う内藤にとって、「世の中でアピールしたい」という観点が、他の選手と明らかに違っていた。高校野球部に入って、レギュラーを取るための「声出しアピール」というノリだった。

 ブルペン入りは年功序列、最年少でシンガリだった内藤の目が輝いた。そこには内藤より4歳上の「甲子園のアイドル」がいた。「あ、荒木大輔だ!」。同時に、ブルペンの静けさにも驚く。砂漠の町アリゾナ州ユマ。観衆は、少しだけの報道陣と、時間をもてあました見物程度の地元の年輩だ。

 投球練習の途中、ブルペン捕手の小山田健一が、「お、いいじゃないか内藤!」と声を掛けた。「しゃべっていいんだ」と気づいた瞬間、内藤のスイッチが入った。ブルペンで1球1球、雄たけびを上げながら投げ始めた。「よっしゃー!」「ナイスボールだ!」「強打者も打てないぜ!」。甲子園の大歓声に慣れているはずの荒木がブルペンを出て、思わず報道陣に愚痴をこぼすほどのうるささだった。

 当時の投手コーチは、小谷正勝。三浦大輔(現・DeNA監督)や内海哲也(巨人、西武)ら多くの名投手を育て上げた名伯楽だ。「お前、怪獣映画に出てくるようなヤツだな。ギャーギャーうるさい! ギャオスだ」――“ギャオス内藤”誕生の瞬間だった。(文中敬称略)

(石川大弥 / Hiroya Ishikawa)

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