大怪我も「僕には光明だった」 選手生命の危機もプラスに…躍進生んだ“配置転換”

広島で活躍した山崎隆造氏【写真:山口真司】
広島で活躍した山崎隆造氏【写真:山口真司】

山崎隆造氏は右膝蓋骨複雑骨折の翌年、外野での起用が増えた

 大怪我からの見事な復活劇だった。プロ5年目、1981年3月のオープン戦でコンクリートフェンスに激突して右膝蓋骨複雑骨折の重傷を負い、1シーズンを棒に振った山崎隆造氏(元広島、現野球評論家)はリハビリを経て、戦列に戻った。6年目の1982年は4月4日の中日との開幕戦(広島)に「2番・二塁」でスタメン出場して2安打1盗塁をマーク。この再出発からどんどんレギュラーに近づき「怪我が僕には光明だったんですよ」とまで口にした。

 復活の開幕スタメンについて山崎氏は「ホントにありがたかったです。1年休んでいた選手を、どっちに転ぶかわからないような選手を古葉監督がまた使ってくれた。開幕から逆算して調整させてくれたわけですからね」と恩師に感謝した。開幕2試合目も「2番・二塁」で出て5打数4安打。カムバックを自ら祝うような活躍ぶりだったが、自身にとってさらに大きかったのはその後、外野手での起用が増えていったことだという。

「最初はセカンドで復帰したんですが、やはり右足に負担がかかるからと言って外野になった。“怪我の功名”で外野に回ったことは僕の野球人生の中では絶対プラスだったんです。内野手で同じ成績を残せたかといったら自信がないし、内野だったら、エラーしまくってイップスになっていたかもしれない。これは自分だからわかることです」。すべては超アクシデントの大怪我が導いたものだけに、「怪我してよかったんじゃないか」と思えるまでになったわけだ。

 とはいえ、怪我を重ねることだけは防がなければいけない。コンディション調整には当然気を使ったが、もうひとつ流れを変えるために、86試合の出場で6年目を終えたオフ、入団からつけてきた背番号「23」の変更を球団に願い出た。「23で怪我をしたので、23はちょっと排除したいと思ったんです」。そこで球団から新たに与えられた背番号が「1」。恩師である古葉竹識氏と大下剛史氏が現役時代につけていた番号だった。

背番号が「23」から「1」になった1983年、初の打率3割をマーク

「これは定かじゃないけど、大下さんが僕に1番をって裏で動いてくれたって話を聞いたことがあります」という。「1番は似合わないだろうなと思いながらもうれしかったし、モチベーションアップにつながった」。その言葉通り、背番号「1」となった7年目の1983年シーズンで山崎氏は躍進した。4月9日の中日との開幕戦(ナゴヤ球場)は「2番・中堅」で4打数3安打3打点、1本塁打。好スタートを切って勢いに乗った。

 7年目は107試合で打率.305と初の3割をマークし、6本塁打、34打点、26盗塁。4月はセカンドとセンターを交互に守っていたが、7月上旬からはライトに定着して結果を出した。山崎氏はその頃を振り返りながら、怪我から復活の6年目も、躍進の7年目も開幕戦の相手が中日だったことも「ラッキーだった」と明かす。

「あの当時、僕は中日戦でよく打っていた。なぜか相性が良かったんですよ。鈴木孝政投手、小松辰雄投手、郭源治投手、牛島和彦投手、そういったところが好きだったですからねぇ。ドラゴンズ戦、早く来い! って思っていました。中日戦は気持ちでものすごく優位に立てる。だから結果も良かったんでしょうね」。選手生命の危機でもあった大怪我さえもプラスにとらえ、結果的には“中日効果”も重なって、山崎氏の野球人生は好転していった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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