「走れなくなった」引退年 最終打席でも“自己犠牲”…後輩も感銘「涙が出ました」

広島で活躍した山崎隆造氏【写真:山口真司】
広島で活躍した山崎隆造氏【写真:山口真司】

1993年に現役引退、プロで貫いた“自己犠牲”の精神で挑んだ最後の打席

 1993年10月9日、広島市民球場での阪神戦終了後、山崎隆造氏(現野球評論家)の引退セレモニーが行われた。「17年間の現役生活に悔いはありません」。熱いスピーチに球場全体が大歓声、大拍手に包まれた。プロ入り後にスイッチヒッターに転向、選手生命の危機に立たされた大怪我からも復活し、カープの優勝にも何度も貢献した。まず走者を次の塁に進めることを心掛けた仕事人。最後の打席も“自己犠牲”の精神だった。

 その日、山崎氏は「2番・右翼」でスタメン出場した。4打席目に阪神・郭李建夫投手から二塁打を放ったのがラストヒット、プロ通算1404安打目だった。最終5打席目の相手は阪神の抑えで左サイドスローの田村勤投手。5-6。広島が1点を追う9回だった。「確かノーアウト二塁だったと思う」。右打席に入った山崎氏は「何とかヒットを打つんじゃなくて、進塁させなきゃいけないと思って、右打ちをしようとした」という。

 結果は三振だったが、山崎氏は「僕からしたら自分流を貫けた。サイン通りにもやるけど、ここぞという時は自分のチームが勝てるために、というのは僕のポリシーでもあるんで、いわゆる自己犠牲が僕の特徴のひとつですから」。それはチームメートにも伝わった。「紀藤(真琴投手)が『引退試合なのにヒットを打ちにいくんじゃなくて、最後まで何とかしようとされる姿に感動しました。涙が出ました』って言ってくれました」とうれしそうに振り返った。

 この年は覚悟を決めて臨んだシーズンでもあった。111試合、打率.265、6本塁打、31打点、2盗塁の成績に終わった前年1992年に、上土井勝利球団本部長から引退を打診されていた。江藤智内野手ら若手が成長してきたこともあってのことで「今だったらコーチにもって条件まで言われたんだけど、もう1年やらせてくださいと、延ばしてもらった」という。普通ならOKしてもらえないところを、承諾してもらった形だった。

影響を与えた3人の恩師、5年目の大怪我も不屈の精神で乗り越えた

 しかし、17年目の1993年も力を発揮できなかった。盗塁はついに0。まだ35歳だったが「走れなくなった。ホントに辞めどきだったと思います」という。安打数に関しては「1404はやっぱり中途半端。1500は行きたかったなぁっていうところ。もう少し頑張れたらね」と悔しそうに話しながら「最後は衰えがあったからですよ」。だんだん出場機会にも恵まれなくなっていたことにも「それまでに打っておきたかったなぁってところですよね」と潔かった。

 通算1531試合に出場して、打率.284、88本塁打、477打点、228盗塁。地元の崇徳高校からドラフト1位で入団。プロ5年目に外野守備でコンクリートフェンスに激突して大怪我のアクシデントに見舞われたが、それを不屈の精神で乗り越えた。これは誰もができることではないだろう。スイッチ挑戦を進言して辛抱強く使ってくれた元監督の古葉竹識氏、激烈な指導で育ててくれた元コーチの山本一義氏と大下剛史氏。この3人の恩師の存在も大きかった。

 引退試合後、山崎氏は本拠地のグラウンドで赤ヘルナインに胴上げされて、宙を舞った。「結局、コーチにもしてくれたし、セレモニーもしていただいた。球団にはそれはもう感謝ですよね」。プロ7年目から背番号が「23」から「1」に変わったスイッチヒッターは17年間の現役生活をカープ一筋で全うした。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

RECOMMEND

KEYWORD

CATEGORY