甲子園常連校が敗退危機 9回2死で5点差も…“止めたバット”から始まった大逆転劇
1978年夏…早実は東東京大会初戦で絶体絶命の危機に瀕した
高校最後の夏はギリギリだった。野球評論家の川又米利氏(元中日)は早稲田実で2年春から3年夏まで4季連続甲子園に出場した。どの時代にも思い出はあるが1978年の3年夏、東東京大会は「忘れられない5試合だった」と振り返る。中でも強烈だったのは海城との4回戦。「ウワッ、初戦でやられるって思った。9回2アウトで5点差をつけられていたからね」。最終的には10-9で勝ったが、ミラクル続きだったという。
早実2年で甲子園に春夏連続出場。いずれもベスト8に進出した。勢いは続き、2年秋の東京大会を制し、1978年選抜大会出場を確定させた。明治神宮大会は東海大四(現・東海大札幌=北海道)との初戦に延長10回8-9でサヨナラ負けしたが、エース・山岡靖投手は安定感抜群で、打線も川又氏と荒木大輔氏(元ヤクルト)の兄・健二氏を中心に強力。投打ともに前年に見劣りしない戦力を有していた。捕手は川又氏の1学年下で、現在の早実監督である和泉実氏だった。
1978年選抜大会は1回戦で柳川商(現・柳川=福岡)に3-1で勝利。川又氏は4回に甲子園初アーチを放ち、先輩の王貞治氏にちなんで“王2世”と騒がれた。「ホームランは覚えている。打った瞬間、行ったと思った。手応えがありました」。相手投手は現在、中日の取締役連盟担当兼野球振興本部長の加茂浩將氏。これも縁だったということか。
2回戦で浜松商(静岡)に4-5で逆転負け。川又氏は「4番レフトで出て、3安打したのは覚えています。浜松商は優勝したからね。勝っていればねぇ」と悔しそうに話したが、この選抜後、厳しい戦いが待っていた。
春の東京大会は2回戦で城西に6-10で敗戦。立て直して臨んだ夏の東東京大会はまず、アクシデントに見舞われた。「(エースの)山岡が足を負傷して、そこから膿んじゃって熱が出て投げられる状態じゃなかったんですよ」。
海城との初戦は、大劣勢の展開になった。「あと1点取られたらコールド負けという時もあったからね。途中から山岡が無理して投げたけど、かなりしんどかったと思う」。追い詰められた。「確か5点差をつけられての9回2死満塁で僕に打席が回ってきた。左中間に2点タイムリーを打った。荒木も打って、山岡も打ったかな……。1点差にして2死三塁になった」。そこでミラクルがあったという。
海城OBの徳光和夫さんから「あの時は勝てそうだったのに…」
「バッターの清水が中途半端にハーフスイング。止めたバットに当たって『ああ終わった』と思ったら、その打球が一、二塁間を抜けて同点になったんです」。まさに奇跡的な一打だった。「裏を抑えて延長に入って2点取った。その裏、先頭打者に二塁打を打たれて、次の打者がエンタイトル2ベースで1点を取られたけど、なんとか抑えて10-9で勝ったんです」。
ただし、川又氏はこう付け加えた。「エンタイトルになっていなかったら三塁打だった。そうしたら追いつかれていたかもしれない。あの試合はどう考えても普通なら負けだったでしょうね。海城は徳光さん(フリーアナウンサーの徳光和夫氏)の母校なんですよ。のちに言われましたもん。『あの時は早実に勝てそうだったのに』って」。
早実は5回戦で攻玉社に10-0、準々決勝は城西に9回、一挙12点の猛攻で15-3。春の東京大会で敗れたリベンジを果たした。準決勝は二松学舎大付に11-4。決勝は帝京に13-10で勝ち、4季連続の甲子園出場を決めた。だが、この試合も6回終了時点では4-10で負けていた。そこから7回に5点、8回に4点を奪っての大逆転勝ちだった。
「僕は6打数5安打だった。これも大変な試合だったけど、打ち合いになったらいけるとは思っていた。そりゃあ、あの海城戦に比べたらね」
夏の甲子園は1回戦で倉吉北(鳥取)に2-3で敗戦して終了。川又氏も好機で凡退して悔しい結果に終わったが、この年の夏、最も印象深かったのは負けそうになった東東京大会4回戦の海城戦。ギリギリで乗り越えた試合は川又氏の脳裏に焼き付いている。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)