「お前なんか構想に入ってない」 “恩師”との関係に亀裂も…監督は手紙で「もう帰ってこい」
野田浩司氏は1992年に右肘痛で2軍落ち…中村勝広監督から手紙をもらったという
1992年シーズン、中村勝広監督率いる阪神は、若手の亀山努氏、新庄剛志氏の台頭による“亀新フィーバー”で大いに盛り上がった。最終的には巨人と同率の2位タイに終わったものの、ヤクルトと激しく優勝を争った。当時プロ5年目だった野田浩司投手(現・野球評論家)は右肘痛で出遅れ、その状態が上がらず5月に2軍落ちしたが、1軍復帰の7月に完封、完封、1失点完投、完封で4勝をマークして月間MVPに輝くなど活躍した。
この年、野田氏は春季キャンプ後に右肘を痛め、オープン戦も数試合しか登板できなかった。「開幕してからは、ごまかし、ごまかしでやっていたけど、駄目だった」。前年の1991年9月24日のヤクルト戦(甲子園)で150球完投勝利の翌日に大石清投手コーチからブルペン投球を命じられたのをきっかけに、同コーチとの関係が悪化。1992年はその流れのまま突入していた。その上、結果が出なかったため、最悪のムードだった。
大石コーチは厳しい言葉で選手を発奮させるタイプだったそうだが、その時の野田氏はそういうふうにはとても受け止められなかった。「『もうお前なんか構想にも入ってないから』なんて言われたりするわけですよ。その頃、大石さんとはまともに話してなかったし、もうそれも駄目で、痛いし、打たれるし、なんか心の病にかかったような感じでした」。それで2軍落ちとなったが、振り返ればこれが良かったという。
「ファームで(育成コーチの)上田次朗さんや(ブルペンコーチの)加藤安雄さんが一生懸命、僕を再生しようとしてくれたんです。それで気持ちも晴れていった。加藤さんは『ナイスボール』とか言ってくれて、調子も上がってきたんです」。大石コーチとも離れて、居心地もよかったようだ。「中村監督にもう上がってこいと最初言われた時、あえてまだしっくりきません。まだ行きませんって言って断りました。監督も僕と大石さんの関係を知っていましたけどね」。
7月に1軍に戻った際は「中村監督から手紙をもらったんです。『ピッチャーが疲れている。もう帰って来い』と書いてあって、それで『わかりました』と言って上がりました」という。野田氏はそこから大活躍する。7月8日の大洋戦(甲子園)で5安打完封、7月15日のヤクルト戦(甲子園)も5安打完封、7月25日の中日戦(甲子園)は7安打1失点完投勝利、7月31日の大洋戦(甲子園)はまたも5安打完封と4勝を挙げ、月間MVPに輝いた。
1軍復帰後に月間MVP…関係がこじれた大石コーチも「頼むから取らせてやってください」
それでも大石コーチとの関係はギクシャクしたままだった。「この年、僕が投げる時は、交代以外、大石さんは1回もマウンドに来ませんでしたからね。でも、後で聞いたんです。7月31日に僕が先発する時、大石さんがコーチ会議で『今日は野手の皆さん、頼むから野田に月間を取らせてやってください』って言っていたって。その年のオフに僕がオリックスにトレードになった時も『なんで野田を出すんや』ってすごく怒っていたって……」。
その時は関係を修復できなかったが、後になって考えてみれば、大石氏の指導のおかげの部分がいくつもあったという。野田氏はオリックス移籍後の1995年に1試合19奪三振の日本記録を達成するなど、さらに進化していった。それにもつながったと感謝している。いろいろあったが、大石氏は、野田氏の野球人生には欠かせない人物でもあるわけだ。
そんな1992年シーズンを振り返る上では“亀新フィーバー”も外せない事象だ。「あれはすごかったですね。亀山と新庄が動いたら、女の子がついていくような感じだった。球場がコンサート会場みたいでしたよね。それくらい人がいました。新大阪駅から新幹線に乗る時なんて、押されて、女の子が何人か乗ってしまって京都まで行っていましたよ。『どうする』って言ってましたからね」。もちろん、これにはチームが優勝争いしていたこともある。
「最後、惜しかったですね」。野田氏は大詰めの10月9日の中日戦(ナゴヤ球場)に先発し、6回1失点と好投。リリーフ陣も点を許さなかったが、打線がガチガチ状態で沈黙して0-1で負けて優勝が大きく遠のいた。さらにオフには打線強化のため、オリックス・松永浩美内野手と野田氏のトレードが決まるわけだが……。「あの年、阪神が優勝していたらどうなっていたでしょうかねぇ」。野田氏にとっては、これも運命の分かれ道だったといえるのかもしれない。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)