「お前は投げるな」強烈ヤジ浴びる地獄の日々 うなされ寝付けず…抑えのトラウマ
江夏豊氏は1981年に日ハムへ移籍…大野豊氏がクローザーに抜擢された
広島カープは1979年、1980年に2年連続でリーグ優勝&日本シリーズ制覇を成し遂げた。広島OB会長で野球評論家の大野豊氏はプロ3年目と4年目の時期だった。「自分はそれほど貢献していないけど、1軍でそれを経験できたのは無茶苦茶、大きかったですね」。だが、翌1981年シーズンからは試練の時がやってきた。師匠の江夏豊氏が日本ハムに移籍。代わって抑えを務めたが……。「5年目からの3年間は僕の野球人生で一番つらかったですね」と振り返った。
プロ4年目の1980年から大野氏の背番号は24になった。1年目は60、2年目からは57をつけていた。「(左投手の)渡辺(弘基)さんがやめられて、24が空いた。球団の方から57は重たいからもうちょっと軽い番号を、ってことで24はどうだって言われました。僕は好き嫌いとか駄目とか言えませんし、ありがとうございますとつけさせてもらいました」。大野投手といえば24番。そうイメージされるほど定着することになるが、つけた経緯はそういうことだった。
その年の大野氏は49登板、7勝2敗1セーブ、防御率2.71。オールスターに監督推薦で初出場を果たした。チームは前年(1979年)に続くリーグ優勝&日本一。“24番元年”は幸先のいいスタートだったと言えるのかもしれない。だが、2年連続日本一を成し遂げてから8日後の1980年11月10日、大野氏にとって、つらすぎる出来事が起きた。師匠の江夏豊投手と日本ハム・高橋直樹投手の1対1の交換トレードが発表されたのだ。
「それはもうショックでした。まだまだ江夏さんと一緒にやりかったし、教わることもまだまだたくさんあったし……」。ここまでプロで成績を残せたのは江夏氏のおかげ。多くのアドバイスを受けてきたことが、大きかった。そんな師匠がいなくなったのだから、不安になるのも無理はない。そんな中、日南秋季キャンプで古葉竹識監督から「来年から抑えをやってくれ」と言われた。もちろん、やるしかないし、気持ちも新たに臨んだが、現実は厳しかった。
1981年シーズン、抑えになったプロ5年目の大野氏は57登板、8勝4敗11セーブ、防御率2.68。数字的には勝利数、セーブ数、防御率のいずれも前年を上回り、結果を残したように見えるが「勝ち星がくせものなんですよ。クローザーたるもの、勝ち星はいらない。セーブをいかに増やすかなんです。それを僕はできなかったんです」と厳しい表情で説明する。「江夏さんはすごいポジションで期待に応えるピッチングをされていたんだなと改めて思いました」。
「僕は江夏さんみたいにはできなかった。力不足でした」
悔しいシーンも覚えているという。1981年6月23日の阪神戦(甲子園)、9-7の2点リードで迎えた9回裏、7回から登板していた大野氏は2死から3連続四死球で満塁のピンチを作った。ここで6番・藤田平内野手をワンバウンドのフォークで空振り三振。だが、ゲームセットにはならなかった。「ボールがベースの角に当たって、一塁側のベンチの前まで転がっていって……」。その間に三塁走者だけでなく、二塁走者まで生還。何と振り逃げで同点となってしまった。
なおも一、三塁で佐野仙好外野手には二塁内野安打。勝っていたはずが、まさかのサヨナラ負けだ。しかも、これで終わりではなかった。「それから3日後の後楽園球場での巨人戦(8月26日)でもワイルドピッチで逆転されたんです。1週間で2回もやっちゃったんですよ。この時は寝付きが悪かったですねぇ……。目をつぶったら、その光景が浮かんでくるんです。ホント、最悪の時でしたね」。
大野氏は1981年から3シーズン、クローザーを務め、1982年が10勝7敗11セーブ、1983年は7勝10敗9セーブ。「最初の年と同じで、勝ち星が多くて、セーブが少ないでしょ。これはクローザーの役割を果たしていないことを表している数字なんですよ」。リリーフ失敗が続くと、当然、周囲の目も厳しくなった。「一番、ヤジが多かった時期でした。ヤジで鍛えられました。ホント、つらかった。江夏さんと比較されるのもつらかったですね」
登板前からブーイングを浴びた。「『江夏だったらな』とか『大野は駄目だ、打たれる、お前は投げるな』なんてヤジもありましたしねぇ……。そんなことを言われないようなピッチャーにならなければいけない、そうなりたいというような思いもありましたけど、非常につらかったです」。悔しくてたまらない。まさに試練の日々だった。
「あの頃のクローザーって今みたいな1イニング限定ではなく、7回や8回のピンチから行って最後まで投げ切らなければならない。イニングまたぎは当たり前だし、そんな言葉もありませんでしたから。今でいうセットアッパーとクローザーを一人でやる感じ。それを僕は江夏さんみたいにはできなかった。まだまだ力不足でした」。大野氏はプロ8年目の1984年から先発に配置転換となる。「あの時はもう二度と抑えはしたくないって思いましたよ」と言って苦笑した。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)