監督に直訴「優勝はないですよ」 最初は拒否した配置転換…40歳で託された開幕投手

広島で活躍した大野豊氏【写真:山口真司】
広島で活躍した大野豊氏【写真:山口真司】

大野豊氏は40歳シーズンの1995年途中、三村監督の要望で先発に再転向

 元広島投手の大野豊氏(広島OB会長、野球評論家)はプロ19年目の1995年シーズン途中から再び先発に転向した。三村敏之監督から「大丈夫、やれる」と背中を押されてのことだった。その頃から「中年の星」と呼ばれるようになった。当初はそれが嫌で反発したこともあったという。だが、その考えを改めて、すべて前向きに受け止めてパワーに変えた。きっかけは同世代の男性からの激励だった。

 広島が三村体制になったのは1994年シーズン、大野氏はプロ18年目だった。「三村さんは抑えの僕を先発、先発の佐々岡を抑えにしたいと構想をもっておられたんですが、最初の年は断ったんです」。同じく佐々岡投手もこれを断り、この年は配置転換は見送られた。42登板で4勝2敗18セーブ。1991年から3年続けていた20セーブ以上はならなかったが、それなりの結果も出した。しかし、翌1995年はつまずいた。

 開幕して4月20日までに3セーブをマークしていたが、4月21日の横浜戦(横浜)と4月30日の中日戦(ナゴヤ球場)で2試合連続で1点リードを守れず逆転サヨナラ負け。再び三村監督から先発転向を打診され、今度は断れなかった。先発は5年ぶり、40歳目前での転向だっただけに不安いっぱいだったが、指揮官も引かなかった。「三村さんは、僕がブルペンに投げる時には常に来てくれて『いける、大丈夫、大丈夫』と言ってくれましたよ」。

 前半は先発で1勝しかできなかったが「オールスター期間中に、それまでワインドアップで投げていたのを、ノーワインドアップに変えてみたんです。たまたまやっただけなんですけど、そしたらすごくタイミングよく投げられるようになったんです」。球宴明けは6勝0敗、2完封。「三村さんが『ほれみい、お前、勝てるだろ、やったらできるだろ』って。すごい褒めてもらいましたよ」。

 その年、10月8日の巨人戦(東京ドーム)ではワンポイントで登板した。このシーズン限りで引退する原辰徳内野手のラスト打席に投げるためだった。「三村さんに『投げてくれないか』と言われた。その2日前(10月6日)のヤクルト戦(神宮)に先発したばかりだったけど『いいですよ、投げますよ』って言ってね。でもあの時はすごかった。スタンドからのカメラのフラッシュがね。僕が引退するのかなって思うくらいでしたね」。

 結果はレフトフライ。「どうぞ打ってくださいという感じで真っ直ぐばかりを投げたんだけど、辰徳が力んじゃってね」と振り返ったが、もちろん、原氏との数々の対決も思い出深いものがあるのは言うまでもない。「何か憎めない男なんですよね、彼は。何か雰囲気を持っていました。ずっと勝負してきましたけど、何かガツンと投げるイメージになれない選手のひとりだったですね。最初は三振にとったと思いますが、結構打たれたと思います」。

「中年の星」と呼ばれ、同世代の男性からの激励が激増したという

 年齢を重ねていくとともに、原のように年下のスター選手もユニホームを脱ぐケースも増えていった。そんななか、大野氏は40歳で迎えた1996年シーズンで開幕投手を務めた。「これは三村さんに言いましたよ。『僕が開幕投手をするようでは優勝はないですよ。1年間ローテを守って投げられる年齢でもないし、もっと若い人が投げないと駄目ですよ』って」。

 これに三村監督は「いや行ってくれ。大野が投げて勝ってくれればいうことはないし、負けても周りが納得する」と言う。そんな話し合いの末、大野氏は「わかりました」と承諾したそうだ。迎えた開幕戦、1996年4月5日の中日戦(広島)で大野氏は8回3安打2失点ピッチングを見せた。自身に勝敗はつかなかったが、試合は延長13回に広島が3-2でサヨナラ勝ちした。

「任されたら頑張るしかないという気持ちで入りましたけどね。(中日)山崎(武司)に2ランを打たれたんですよ。彼はその年、ホームラン王になったんじゃないかな。僕が勢いをつかせましたね」と話したが、実に見事な投球だった。その頃から大野氏は「中年の星」と呼ばれるようになった。年齢を感じさせず、第一線で活躍を続けるからこそだったが、最初はこの“称号”があまり好きではなかったという。

「40になったあたりから、周りから年齢がどうだこうだって言われ出したんだけど、僕は年齢で野球をやっているんじゃない、年齢がいったって、認められて戦力として必要だったら別に問題じゃないし、若い人だって駄目だったらやめる。年齢じゃないって反発した時期があったんです」。それが変わった。同世代の男性からの激励の手紙がすごく増え出して考えを改めたという。

「僕が投げている姿を見て、元気がもらえるとか、勇気が出た、ぜひ頑張ってくださいというようなね。そういうことで応援してくれる人もいるのであれば、もう年のこともどんどん受け入れて、この年でも頑張っているんだというところを見せてあげたいと思うようになったんですよ」。1996年夏に大野氏は血行障害に見舞われて手術を受けながら、1997年は最優秀防御率のタイトルを獲得する活躍を見せた。まさに同世代の男性たちの希望の星だった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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