40年不動の記録…更新の気配無しに「野球界の発展ない」 必要な大谷翔平の“常識破り”
1980年代のスピードスター・松本匡史氏…1985年には全試合出場で3割超え
第1次長嶋茂雄監督時代にプロデビュー。「青い稲妻」のニックネームで盗塁を決めるさっそうとした姿に、プロ野球ファンの胸は躍った。昨今の盗塁王のタイトルは30個前後で争われる。それを大きく上回るセ・リーグ最多盗塁記録76個(1983年)を保持する元巨人・松本匡史氏が、野球人生を振り返る。
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1984年、記念すべき創設50周年を迎えた巨人は、藤田元司監督に代わり王貞治監督が就任した。王監督はより打撃中心のチーム作りに注力した。1984年はメジャーで実績のあるウォーレン・クロマティが加入し、篠塚利夫が初の首位打者を獲得。「青い稲妻」と呼ばれた盗塁王・松本氏は1985年に打撃でもキャリアハイの成績を残す。
1985年はそれまでの「1番・松本、2番・河埜和正」ではなく、「1番・松本、2番・篠塚」のオーダーが組まれることが多くなった。王采配は、松本氏が出塁したあと「二塁盗塁、バントで送って一死三塁」ではなく、「ヒットエンドランで一・二塁間を破り、無死一・三塁」のケースを狙うようになった。大量得点を狙う一方、松本氏の盗塁機会も減少した。
そうした中でも、1985年には130試合出場、158安打、打率.302の自身最高成績を残した。「自分でも本当によくやったと思います」と評したように、初の全試合出場と打率3割超えである。盗塁数も1982年、1983年の連続盗塁王のあと、1984年は45盗塁、1986年は39盗塁と、いずれもリーグ2位。相変わらずの健脚を披露した。1985年も32盗塁で、1986年には史上18人目の通算300盗塁をマークした。
だが、1987年には吉村禎章、駒田徳広らの若手外野手台頭のうねりに呑み込まれ、打率は.244、盗塁数は13。4度目の日本シリーズ出場を最後に、惜しまれながらユニホームを脱ぐことになった。
「盗塁のごとく常に前進する」ことを教える野球伝道師
通算成績は、現役11年で1016試合出場、902安打、打率.278、29本塁打、195打点。そして、盗塁数は「342」。「自分みたいな選手がよくプロに入れたな。そして(1979年の)左肩脱臼手術のあと、よく頑張ったなと思います。一方で引退は33歳のシーズン。もう少しやりたかったという悔いも残ります」。
「青い稲妻」の異名を取っただけに、盗塁に関しての思いはひとしおだ。昨今の盗塁王のタイトルは30個前後で争われる。「最近の盗塁数の減少は寂しい限りです」。それでも、チーム盗塁数5年連続リーグトップの阪神が5年連続Aクラスの成績を収め、今年は優勝を果たしたことについて、「盗塁の積極性と姿勢がチームに好影響を及ぼすという表れだと思います」と語る。
セ・リーグ記録76盗塁はもう40年破られておらず、今後も破られそうにない個人記録に思える。
「でも、抜いてほしいですね。そうじゃないと、野球界に発展性がない。大谷翔平君ではないけれど、常識を打破してほしいです」
松本氏は巨人コーチ10年間で、スイッチヒッターに転向した緒方耕一を2度の盗塁王に育て上げた。その後は、楽天コーチ、日本女子プロ野球機構アドバイザー、BCリーグ・滋賀監督を歴任。そして現在は玉川大硬式野球部で指揮を執る。
ポリシーは「過去にこだわらない。盗塁のごとく常に前を向いて、積極的に前進する」。そんな野球を通しての教えを、未来を担う若人に伝えている。
(石川大弥 / Hiroya Ishikawa)