復活に苦心も「来年は契約できない」 肩は限界、阪神の誘い断念…選んだ“中日一筋”
今中慎二氏は1997年から左肩痛に悩まされ、1999年8月に手術を受けた
野球人生が暗転した。元中日投手で野球評論家の今中慎二氏は2001年11月10日に現役引退を発表した。「長い間、ドラゴンズにはお世話になり、いろいろとご迷惑をおかけしましたが、ユニホームを脱ぐことを決めました」。プロ生活13年、30歳の若さでの決断だった。「悔いはあります」。そう言って涙があふれた。左肩痛に見舞われたのは1997年の自主トレ中。そこからは怪我と闘う苦しい日々の連続だった。進退を考える上で最後に阪神入りの可能性もあったという。
ナゴヤドーム元年の1997年、プロ9年目の今中氏は自主トレ中に左肩痛を発症。状態が上がらず、通達されていた5年連続となる開幕投手を断念した。6月に1軍に復帰したが、球威やキレは戻っておらず再調整となった。「6月は試しで上げられたけど、『まだ駄目です』と言っていたんですよ。でも、とりあえずということでね。そしたら、ストレートは120後半でした。でしょ、みたいな……」。厳しく、つらい現実だった。
それでも8月には1軍に戻ってきた。懸命の調整、治療によって少しばかり状態もよくなった。8月15日のヤクルト戦(ナゴヤドーム)に先発し、6回3安打1失点で勝利投手。そこからシーズン最後まで、ほぼ中6日で先発した。8月29日のヤクルト戦(ナゴヤドーム)では7回4安打1失点で2勝目をマーク。だが「投げたけど、全然思ったボールがいっていなかった」。肩の痛みも完全に消えることはなく、1997年は2勝2敗、防御率4.03で終了した。
調子がいい時もあれば、悪い時もある。肩の痛みとの闘いはプロ10年目の1998年も変わらなかった。開幕4戦目の4月7日の阪神戦(ナゴヤドーム)に先発するなど、1軍にいても以前と同じ感覚では投げられなかった。好投しても、安心できなかった。実際に長続きはせず、7月に2軍落ちし、この年は2勝8敗、防御率5.34。5月16日の横浜戦(ナゴヤドーム)に5回1失点で挙げたシーズン2勝目が、結果的に現役ラスト勝利になってしまった。
苦闘は1999年も続く。この年は5登板で0勝1敗、防御率7.88。先発したのは7月15日の広島戦(ナゴヤドーム)の1試合だけだったが、これとて「前の日から肩がちょっと腫れていたけど、言えないしなぁと思って投げた」という。結果は2回6失点。「野村謙二郎さんにホームランを打たれたけど、あの人の談話が……。俺が投げた真っ直ぐをフォークと言われたんですよ。それだけボールがいってないんだ、もう駄目だと思った」。
トレーナーと相談して、当時、治療に通っていた福岡の久恒病院で「答えを出そう」と決めた。そして「『これからずっと痛み止めの注射を打ちながら投げるか、思い切って手術してやり直すか、どっちがいいですか』と言われて、毎回注射を打つのも怖いし、手術することになったんです」。8月に手術を受けた。「大っぴらに手術するとは言ってなかったんですけど、中村(武志)さんからは花が届いたし、手術の朝には、立浪(和義)さんから電話があった」という。
2軍戦はほとんど直球勝負…空振りを奪うことに「執着していた」
この年、星野中日はリーグ優勝を成し遂げたが、それが決まった9月30日、今中氏はリハビリの先生と北九州で夜釣りに行っていた。「日本シリーズがダイエーとだったでしょ。その時、俺はリハビリで福岡にいたんです。同じ宿に泊っていたし、監督のところにも挨拶に行きましたよ。『お前、何でここにいるんだ』って言われましたけどね」。手術もリハビリもすべて自費。優勝に貢献できなかった悔しい思いとともに、何としても復活すると誓っていたのだが……。
2000年はプロ12年目にして初めて1軍登板なし。リハビリに時間を費やした。「手術した時から2年は見た方がいいと言われていた。ドクターは『キャッチボールは30メートルまでは普通に行けるけど、40メートルからが大変だよ』と言っていたけど、本当にそうだった。『何でですかね』と聞いたら『怖さが出るからだ』って。『痛いのを乗り越えなければいけない』ということで頑張ってきた。でも五体満足で投げることはなかったですね……」。
勝負の2001年は沖縄・北谷の1軍キャンプからスタートした。「投げ込みもしましたよ。ボールは全然いかなかったし、周りとは雲泥の差だったけど、とにかく投げないと前に進まないと思って……。138キロとか出るようにもなったんですよ」。しかし、調子は上がらず開幕1軍は諦めるしかなかった。「試合で抑えていても空振りが取れなかったんですよ。それにイライラした。ファームで取れなかったら1軍では絶対取れないって話ですから」。
2軍の試合はほとんど真っ直ぐで勝負した。「がむしゃらに空振りを取りたかった。それに執着していた。いくら140キロが出ても棒球だったら駄目ですからね。ホント、あの時は空振りひとつ取るだけでどれだけうれしかったか。滅多に取れなかったですけどね」。そんな“闘い”を経て6月に1軍へ上がった。「以前よりはまだ何とかなるんじゃないかと思ったんですが……」。6月7日の巨人戦(東京ドーム)に2番手で1回無失点。1年11か月ぶりの1軍登板だった。
その後もリリーフで投げたが、7月13日の阪神戦(甲子園)に3-8の8回に5番手で登板し、桧山進次郎に一発を浴びるなど1回2失点に終わると2軍行きを告げられた。「あの時(ヘッドコーチの)島野(育夫)さんに『お前、なんでファームに行くのか、わかっているのか』と言われて『わからないです』と答えたら『今度先発で使うから長いイニングを投げさせるために行かせるんだ、何で知らないんだ』って怒っていたのも覚えています」。
2001年オフに阪神からテスト参加の打診も断念…引退を決断した
今中氏も先発復帰を目標に調整に励んだ。しかし、そのチャンスを与えられることはなかった。2001年9月26日、ナゴヤ球場で児玉光雄球団代表補佐から「来年は契約できない」と告げられた。それは星野仙一監督の辞任が発表された翌日のことだった。返事は保留した。「(1軍で)先発をやらせてもらって駄目ならやめようと思っていましたからね」。その答えを出す前に、答えを出す機会がないままに突きつけられた。想像できなかったわけではないが、やはり……。
結論を出すまでには時間がかかった。「一番親身になって相談に乗ってくれた島野さんには『もう1回やってみろ、よそで続けてみろ』って言われました」。実際、旧知の阪神関係者から安芸秋季キャンプへのテスト参加の打診もあった。しかし「キャンプで見てからだったら、たぶん無理ですよ」と答えた。「その頃はもう肩がオフに入っていたから、張り詰めたものがなくなり、痛みもあった。そこから安芸キャンプに行ってもビシッとは投げられないと思ったんです」。
2001年シーズンで左肩の状態は確実にいい方向に回復していたし、翌2002年に向けての手応えもなかったわけではない。「もう1年やって結果が出なければ……って考えてもいたしね」という。だが、オフになった段階で今すぐ結果を出せと言われれば、簡単なことではない。島野氏にも促されて、もう一度、練習に取り組んだが「やっぱり気が入っていないと肩が全然何ともならなかった」。そしてユニホームを脱ぐことを決めたのだった。
星野監督にも報告した。「星野さんも『その方がいいだろう』って……」。11月10日の引退会見。やれることはやって考えた末に結論を出したことで「後悔はありません」と口にした。でも、もう1度先発で投げて答えを出したかったとの思いも隠すことができず「悔いはあります」とも……。通算成績は233登板、91勝69敗5セーブ、防御率3.15。完投は74の凄さ。怪我さえなければ、どれだけの数字を残しただろうか。何とも早すぎる30歳での引退だった。
その年の12月17日、星野氏が阪神監督に就任した。もしも、今中氏が阪神入りしていれば、“師弟関係”継続となるところだった。「まさか星野さんが阪神の監督になるなんて思ってもいなかったですからね。180度ひっくり返ったようなことでしたもんね。もちろん、そんな話、俺にはひと言も言っていませんでしたよ」。それが実現しなかったのも運命。中日一筋を選択した稀代のサウスポーは笑みを浮かべながら振り返った。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)