「人生終わった」母に失意の報告も メディアに反論した指揮官…いきなり渡されたガム
彦野利勝氏は5年目の春、先輩の故障離脱で1軍復帰…チャンスを掴んだ
プロでの生き残りをかけた闘いは熾烈だ。元中日外野手で野球評論家の彦野利勝氏は5年目の1987年、先輩選手の怪我でチャンスをつかんだ。「あれがなかったら、僕はそのままクビになっていたかもしれない」と振り返るほど、ギリギリのところだった。このシーズンから中日の指揮を執ったのは闘将・星野仙一氏。もちろん、厳しかったが、それ以上にうれしかったことも覚えている。「僕のことでマスコミに言い返してくれたんです」。感動したという。
「これで駄目だったらクビだな」。彦野氏は、そう覚悟して1986年の秋季キャンプに臨んだ。何としても星野新監督にアピールしなければ、との思い。区切りの5年目は、これまでのすべてを注ぎ込んで練習に取り組んだ。翌1987年の自主トレ、キャンプも同様。「キャンプに向けて練習したし、体も作って、ちゃんとよーいドンでいけるように頑張って、やったんですけどね……」。
キャンプ終盤、その時点での1、2軍振り分けがあり、紙が貼り出された。「1軍候補メンバーに入るとオープン戦に出掛けて行くんですけど、2軍はそのまま残ってキャンプ。僕はそれまで1軍キャンプにいたんですけど、見たら2軍だったんです」。落ち込んだ。「これだけ一生懸命やったのに駄目だったんだって思いましたね。それこそ、そこにすべてをかけていたくらいだったんで、もうこれで終わった、くらいの感じでした」。
ところが、その流れが突然変わった。「紙が貼り出された次の日か、その次の日に紅白戦があったんです。2軍の僕らは出ませんよ。1軍の人たちだけです。そしたら(外野手の)蓬莱(昭彦)さんが死球を受けて骨折したんですよ。それで一人、空きができて僕がそこに入ったんです。急に、土壇場でそうなったんです」。負傷した蓬莱氏にとっては何ともアンラッキーだったが、彦野氏は「もし、そうなってなければ、僕はオープン戦に行ってないし、もしかしたら、そのままクビだったかも」と振り返るほどのことだった。
もっとも、オープン戦でも当初はあまり出場できなかった。「たまに出してもらった時に、ちょいちょい打っていたとは思いますけどね」。そんな状況でチャンスをつかんだのはロッテとのオープン戦だったという。「(レギュラーセンターの)平野(謙)さんが、その頃に結婚されて(チームから)抜けた時があったんですよ。そしたら監督が『お前行け』って代わりに使ってくれて、確か4安打したと思います。その辺じゃないですかね、ちょっと認めてくれたのは……」。
スタメン抜擢も自身のミスで敗戦…2軍落ちを覚悟した
与えられたチャンスをきっちりモノにしたのが凄いところだろう。「その試合をきっかけにスタメンで使ってもらったり、途中から行けって言ってもらったり……。それまで監督には『57番』って呼ばれていた。それくらいの認知度だったんですが、結果を出すこともできて、最終的には開幕1軍にも残してもらったんです。でもひやひやですよ。当然、一番ケツで入ったと思います」。キャンプ終盤の“2軍通告”からの大逆転だった。
1987年4月10日、巨人との開幕戦(後楽園)、翌11日の第2戦のいずれも代打で無安打に終わったが「1試合目が西本(聖)さん、2試合目は夢にまで見た江川(卓)さんとの対決。ファンだったからうれしくて、打席にいることだけでも楽しかったです」。そんなスタートで、チャンスが巡ってきたのは開幕7試合目の4月17日の阪神戦(ナゴヤ球場)。いきなり「1番・センター」に抜擢されたのだ。
「前の日の試合(4月16日、広島戦、ナゴヤ球場)で、平野さんが骨折したんです。それで空いた1番・センターに監督が僕を指名してくれたんです。さすがに夢にも思っていませんでしたよ。オープン戦じゃなくて本番ですから。外野手がほかにもたくさんいたなか、一番若造の、何の実績もない僕ですからね」。そのシーズンの彦野氏はそこまで6打数1安打。決して結果を残していたわけではない。それだけに本人もびっくりの出来事だった。
結果は最悪だった。5打数無安打、2三振、1失策。試合は2-3で中日が敗れた。「確か僕の送球ミスで負けたと思います。最後は僕が三振ゲッツー。もう人生が終わったくらい落ち込みましたね。はっきり言って何もかもが散々じゃないですか。いいことがひとつもなかったですからね。家に帰ってお袋に『こんな大チャンスをもらったけど生かせなかった。おそらく、電話がかかってきて明日から2軍だから』って話していました」。
ミスの翌日に星野監督から渡されたガム「今日はワシが許す」
その電話はなかった。「翌日、どんな顔をして球場に行けばいいんだろうって思いましたけど、行くしかありませんからね。着替えた後、通路で監督に会いました。。『おはようございます』って挨拶しましたけど、たぶんどやされると思っていました。そしたら、監督は『お前、昨日はえらい力み倒していたな。今日はワシが許すから、これを噛んでやれ』ってガムを渡されたんですよ。どういうことと思ったら、また1番センターでスタメンだったんです」。
言われた通り、ガムを噛みながらプレーした4月18日の阪神戦で彦野氏は3打数1安打1打点。「その試合、僕が打って勝ったんですよ。相手ピッチャーは池田(親興)さんだったと思います」。うれしかった。そして後で聞いた。「最初の試合で駄目だった時、監督はマスコミの皆さんに、僕を使ったことをいろいろ言われたそうなんです。でも『ワシのやることに文句つけるな』ってかばってくれて……。2試合目の後は記者に『俺の見込んだ通りだろ』って……」。
この話を知って、彦野氏は「ちょっと感動しました」という。星野監督の言葉で自信もついて4月19日の阪神戦は6打数4安打とさらに活躍した。「でも、次の神宮遠征で、胃潰瘍になっちゃったんですけどね。寝れないくらい痛くて、トレーナーに相談して病院に行って……」。4月21日のヤクルト戦(神宮)には注射をうって出場して3打数1安打。だが、その状態を見て星野監督が「名古屋に帰せ」と指示し、彦野氏は3日間ほど入院することになった。
1軍での闘いは体に変調をきたすほど、精神的にも肉体的にも大変だったわけだが、その間、登録抹消になることなく、4月29日の巨人戦(ナゴヤ球場)から復帰した。まだまだレギュラー定着までにはいかなかったが、クビも覚悟して臨んだ5年目は101試合、打率.254、11本塁打、30打点と成績を大幅にアップさせた。いろいろあったが、忘れられないシーズンになった。それもこれも星野監督が抜擢してくれたから。いっぱい怒られながらも彦野氏は感謝している。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)