「とにかく対戦したくなかった」死球に怒り…最強助っ人が恐れた“174センチの右腕”
「私の中で特別なチーム」…出塁しようと必死な仲間「打つ流れというのは伝染する」
1990年代後半に日本球界を席巻した横浜ベイスターズ(現DeNA)の「マシンガン打線」で、「つなぐ4番」として中心を担ったロバート・ローズ氏(九州独立リーグ・火の国サラマンダーズ監督)が当時を回顧。チームの雰囲気、苦手だった投手、メジャーで通用すると思った選手などを語った。
1993年に来日したローズ氏はその当初から「言葉の壁はありましたけど、帰国するという選択肢は思いもしませんでした。日本での生活を楽しめました」と順応。唯一の心配事は家族のことだったが「しっかりサポートしてもらえていると感じたので、私はストレスもなくプレーに集中できました」。グラウンドで戦うことに専念でき、1年目から94打点でタイトルを獲得するなど19本塁打、打率.325など躍動した。
ベイスターズに在籍8年間で全て規定打席に到達し、打率3割未満は1994年の1度だけ。それも.296という好打率。NPBでの通算は.325で、日本一となった1998年は打率.325、19本塁打、96打点を記録し、その翌年は打率.369、153打点で打撃2冠を獲得した。通算打点は808。シーズン平均で101点と存在感は際立っていた。チーム全体でも派手な得点ではなく、単打や二塁打、進塁打などで着実に加点していく。その途切れない攻撃が「マシンガン打線」の由来だった。
「打つ流れというのはチーム内に伝染していくもの。打席に立った選手からは、塁に出たいという強い気持ちが常に伝わってきていた。私もその中にいる選手として、必死に戦っているチームメートを見た時に、その思いを萎ませるようなことはしたくないと思って打席に立っていました。私の中でとても特別なチームでした」
苦手な投手は「桑田サンです。マウンドでの威圧感はすごかった」
数々の投手を打ち砕いてきたローズ氏だったが苦手もいた。「桑田(真澄)サンです」。巨人のエース(現巨人2軍監督)の名を挙げた。身長174センチとプロの投手としては決して大きい方ではないが、「マウンドでの威圧感はすごかった。打席に入ると大きく見えました」。
一度、桑田の投球を背中に受けたことがあったという。「ものすごいアザになった。私は怒りを表に出すタイプではないのですが、その時は怒ってしまい、彼の方に向かいながら強い言葉をかけたこともありました。とにかく対戦したくない投手でした」と特別視した存在だったという。
桑田は後にメジャーに挑戦したが、当時のベイスターズの個性派集団の中で、メジャー志向が強いとされていた守護神の佐々木主浩を除き、米国でも通用したと思えた選手は「それは難しい質問ですが……進藤(達哉)と谷繁(元信)かな」。それぞれ三塁、捕手としてチームを支えた“名脇役タイプ”だが「進藤の守備は素晴らしかった」と絶賛した。
谷繁とはプライベートでも親交があり、「よく一緒に出かけました。ハワイに約1か月一緒にいたこともありました。私に対して世話をよくしてくれた。大きな声、笑顔。その反面、グラウンドでは厳しかった。特に投手には要求した球をしっかり投げさせようとしていた」。捕手としての気配り、視野の広さと威厳を兼ね備えていたという。
投手で名前を挙げたのは「斎藤隆だ。彼を最初に見た時に『すぐにメジャーに行け』と伝えたのを覚えています」と明かし、実際に斎藤は2006年から7年間ドジャースやレッドソックスなどでプレーした。「あと数人は思い浮かぶかな」。進藤も谷繁もマシンガン打線においては下位の打順だったが、ローズ氏が名前を挙げたことが当時の強さを象徴している。
「とても才能のある選手が揃ってる集団だったことは間違いないね。日本に来た時は自分がレベルを上げなくてはいけない立場でした。周りは自分よりレベルが高い選手ばかり。確かに私はメジャーでの経験はありましたが、私自身がレベルを上げないといけなかったと思っていました」。マシンガン打線のど真ん中にいた男は、懐かしそうに微笑んだ。
(湯浅大 / Dai Yuasa)