夜中1時半…玄関前に立ってた野村監督 共同生活で監視下、フラフラだった25歳
柏原純一氏は4年目に台頭…5年目に背番号が「9」に変更
野球評論家の柏原純一氏にとって最大の恩師は南海時代の監督であった野村克也氏だ。大阪堺市中百舌鳥での個人面談から始まり、教えてもらったことは数え切れないほどある。プロ7年目の1977年には大阪府豊中市刀根山の野村監督が住むマンションの隣の部屋への引っ越しを命じられて、深夜のバットスイングなどマンツーマンでの指導も受けた。強固な師弟関係。その“共同生活”時代はいったいどんなものだったのか。
「野村のおっさん」。柏原氏は野村氏のことを話す時、たびたび、そう口にした。親しみを込めながらも、大先輩のことをそんなふうに言える間柄。特別な師弟関係であったのは言うまでもない。そんな「野村のおっさん」と最初に密に接したのは個人面談だったという。「僕がプロ2年目だったと思うけど(合宿所と球場があった大阪・堺市の)中百舌鳥であったんですよ。監督との面談がね。みんなひとりひとり、短い時間だったんですけどね」。
当時の柏原氏はまだ何の実績もなく、体も細かった。「おっさんの第一声はね『何だそれ、バーテンみたいな体付きしやがって』だった。そう言われてもこっちは何も言えなかったですけどね。その時にまず言葉使いについて言われた。『“俺”とか“ワシ”じゃなくて“僕”“私”でマスコミには答えなさい』って。それと『安いヤツでいいからスーツを作りなさい、ただ飯、ただ酒はやめなさい。自分で稼いで自分で食べなさい』って。それはよく覚えている」。
指示通り、スーツを作ったという。「ローンを組んでね。一着作りましたよ。安いヤツでも、月に1000円か2000円しか払えなかったからね。今は何でも支給されるけど、あの頃はそんな感じでしたね」。人から注目されるプロ野球選手としての身だしなみ。野村氏の教えはそこから始まった。「でもおっさんと密になったのは刀根山に引っ越してからですよ」と柏原氏は懐かしそうに話した。
プロ3年目の1973年シーズン後期に1軍初出場を果たした柏原氏は、そこから頭角を現していった。4年目の1974年は三塁手として起用され、82試合に出場し、打率.239、6本塁打、21打点、7盗塁と成績アップ。5年目からは背番号がそれまでの「53」から「9」になった。「それも覚えています。(4年目の)秋のオープン戦で山陰の方に行って、旅館で野村のおっさんの部屋に呼ばれたんですよ。『お前の背番号を変えてやる。何番がいいか』って」。
1977年、柏原氏は野村監督の隣の部屋に引っ越した
1軍で活躍しはじめたのが認められてのこと。「その時に『1桁の番号が欲しいです』と言って9番をもらったんです。うれしかったですねぇ」。5年目(1975年)は70試合、打率.220、6本塁打、29打点、6盗塁に終わったが、6年目(1976年)にジャンプアップ。一塁でレギュラーの座をつかみ、124試合に出場、規定打席に到達して打率.260、16本塁打、55打点。足でも魅せて26盗塁をマークした。
「足は速くなかったけど、ピッチャーの牽制の癖とかも頭に入っていましたからね。よく走ったと思いますよ。でも(阪急)福本(豊)さんはもっと上ですから。僕の26盗塁なんて全然大したことはなかったんですよ」。福本氏は1970年から1982年まで13年連続パ・リーグ盗塁王に君臨し、1972年には驚異の106盗塁。柏原氏が26盗塁だった1976年も62盗塁を記録していた。とてもかなう相手ではなかった。
「いつだったか、福本さんの痛烈な一、二塁間の打球を僕がダイビングして捕ってアウトにした。そして次の打席で僕は左中間に打った。“よっしゃ、三塁打や”って思ったら、それを福本さんに捕られた。あとで『福さん、やめてくださいよ』って言ったら『お前も捕ったやんけ』って」。それも思い出のひとつだが、とにかく「福本さんはすごかった」という。「ホント、鬼みたいな走力だった」と今なお、うなるばかりだ。
そんな年を経てのプロ7年目の1977年に、柏原氏は野村監督の隣の部屋に引っ越した。「それより前におっさんの“家庭訪問”があった。でも、その時、僕は新地で飲んでいたんです。そしたら『このままじゃ駄目だ。もっとバットを振れ』って。僕は5月の最初までは3割を打っていても、そこからガターっと成績が落ちていた。『お前が4月に打てるのはキャンプの財産が残っているから。その後、お前はやっていないからそれまで打てたのも打てなくなるんだ』ってね」。
夜中の1時半に帰宅…玄関で待っていた野村監督
野村監督にそう言われて、柏原氏は「最初はバットを振っていましたよ」と言う。だが、それは続かなかった。「2回目の家庭訪問があったんですけど、その時、僕はミナミで飲んでいたんです。それでおっさんに『お前はこれでは駄目だ。俺の隣の部屋が空いているから、引っ越して来い』って言われたんです」。これには当初、悩んだという。「他の選手がどう思うかって考えたしね。でも、ここは野球に打ち込もうと決めて引っ越したんですよ」。
そこから野村監督との熱い日々が始まった。「球場への行きも帰りも一緒で野球の話ばかり。帰りは試合の反省をずーっと。帰ったらおっさんのところで食事。おっさんは酒を飲まない。サッチー(野村沙知代さん)に『純ちゃん、飲むの』って聞かれて『はい』って言うとビールの小瓶が1本だけ。飯の時間は長い。そこでも野球のこと。終わったら、よし、振るぞってね」。
外に出てのバットスイングは1時間弱。「おっさんのスイングスピードは速かったなぁ。それにスタミナもあった。こっちはフーフー言っていたけどね」。それが毎晩続いた。「ある時、知り合いから食事に誘われたので、おっさんに『今日は一緒に帰れません』と言ったら『いいよ』って。それでその人と飯食って、飲んで、夜中の1時半頃に帰ったら、玄関のところにおっさんがバットを持って、待っていて『おう帰って来たか、やるぞ』って……」。
柏原氏はフラフラ状態でバットを振ったという。「おっさんはぼちぼち僕が帰ってくる頃だと思ったんじゃないかな。僕からしたら、えーって感じだったですけどね。それからはもう誰からの誘いも一切断りましたよ」。野村監督は「25、6歳くらいまでやれば、あとはその財産でできる」と話していたという。当時の柏原氏は25歳。「野村のおっさん」との“共同生活”は半年ほどで終わったが、実際、その時に培ったものが後の成績につながった。まさに貴重な時間だった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)