トレード通告に怒り「ロッテでなければ引退」 球界騒然…前代未聞の“立てこもり事件”
1977年に野村監督が解任されロッテへ、柏原純一氏は日ハム移籍を拒んだ
野球評論家の柏原純一氏はプロ8年目の1978年シーズンから日本ハムでプレーした。そこからパ・リーグを代表する選手になっていくが、この移籍は“大騒動”の末のことだった。1977年9月28日のシーズン途中に師匠の南海・野村克也監督が解任され、これに反対した柏原氏の日本ハムへのトレードが決まったが、当初は猛烈拒否。野村氏が移籍するロッテ入りを希望し「そうでなければ引退する」とまで口にしていた。
柏原氏にとって野村監督は大恩人だ。師匠が住む大阪府豊中市刀根山のマンションの隣の部屋に引っ越し、毎日、球場へ行き帰りからいつも一緒に行動。帰ってからも野村家で食事をし、その後にバットスイングをして1日が終わるスケジュールだった。「約半年間のことだったけどね、いろいろ教えてもらった。そこでの成果が出たのは日本ハムに移ってからだろうけどね」。だが、日本ハムに移籍となるまでにはかなりの時間を要した。
野村監督が解任された1977年、柏原氏は129試合、打率.255、18本塁打、54打点、12盗塁の成績を残した。開幕時は7番打者だったが、終盤は3番、5番も任される南海の期待の星でもあった。そこまで成長できたのも野村監督のおかげだったのは言うまでもない。その師匠が球団からいなくなる。これはどうしようもなく耐えがたいことだった。野村氏の1選手としてのロッテ移籍が決まり、柏原氏も同じくロッテ入りを希望した。
南海は柏原氏と日本ハムの小田義人内野手、杉田久雄投手の1対2のトレードを決めた。だが、これに柏原氏は首を縦に振らなかった。「ロッテでなければ引退する」とまで口にして、刀根山のマンションに閉じこもった。事態はなかなか進展せず、これが“刀根山籠城事件”と言われた。最終的に日本ハム移籍を了承して、解決となったのは翌1978年1月下旬。2月のキャンプイン直前の時期までずれこんだ。
この件について柏原氏はこう言う。「マスコミの方が朝から暗くなるまでマンションの前で張っておられたけど、その間、僕は寝ていたんですよ。夜になって起きて飯食って、バットスイングしたり、朝まで麻雀したり……。夜11時とか12時にはマスコミの人はいませんでしたからね。今だから話すけど刀根山の野村さんの家に(ロッテ監督の)金田(正一)さんも来ましたよ。野村さんは僕を頼んでくれたけど、いい返事はくれなかったですね」。
野村監督に背中を押され、涙を流して日本ハム移籍を承諾
当時、柏原氏同様に“野村派”でトレードを希望し、広島に移籍した江夏豊投手の方を金田監督は欲しがっていたそうだ。「金田さんが酒を飲むので、僕はウイスキーの水割りを作って出しただけでした。『お前、水割り作るの、うまいな』って言われましたけどね」。ロッテ移籍が到底無理なのは、その時点で十分に感じ取っていたのだろう。
柏原氏は当時の心境について「野球をやめますとは一応言ったけど、やめるつもりはないし、野球協約のことも知っていたから、そんなわがままが通用しないことはわかっていましたよ。ただ、振り上げた拳をどう下ろすか、どこにするか、いつ白旗をあげるかって感じだった」と話す。しかし、時間が経つにつれて、その拳を下ろしにくくもなっていた。
そんな状況下で、柏原氏の背中を押してくれたのは野村氏だった。「1月下旬、東京のキャピトル東急だったかな、地下に中華(料理店)があったんだけど、そこで野村のおっさんとサッチー(沙知代さん)と食事して『日本ハムに行け』って言われたんです」。柏原氏は涙を流しながら「わかりました」と答えたという。それで長い闘いがようやく終わり、日本ハム移籍となったわけだ。
ただし、野村監督解任の理由となった沙知代さんの“チーム介入”に関しては今なお、柏原氏は首を傾げる。「僕は全然知りませんでしたよ」。ほとんど生活を共にしていただけに内情も、その裏事情もよく知っている。その上で「そんなことはなかったと思います」と言い切る。「ある日、野村のおっさんと朝まで麻雀していたらサッチーが『まだやってんの、私が陰の監督って言われているんだから、もういい加減にしてよ』って。(介入が事実なら)そんな風に言わないでしょ」。
野村解任→刀根山籠城事件を経て、日本ハムに移籍した柏原氏はここから自身をさらに進化させた。1978年シーズンは全試合に出場して24本塁打、84打点。一塁手としてパ・リーグベストナインに選出され、ダイヤモンドグラブ賞も受賞した。それは7年間の南海時代に叩き込まれた“野村の教え”があったからこそだった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)