スカウト怒らせ入団、監督から「キャッチャー詐欺か」 早々に転向直訴…破天荒の新人時代
G.G.佐藤氏は法大から3年間の米武者修行を経て西武入り「伸びしろしかないです」
西武やロッテなどで活躍し、明るい性格で人気選手だったG.G.佐藤氏(本名・佐藤隆彦)。法大卒業後、米国での武者修行を経て、2003年ドラフト7位指名で西武に入団した。規格外の強心臓で過ごしたルーキーイヤーをFull-Countのインタビューで語った。
3年間プレーしたフィリーズ傘下1Aを戦力外となった佐藤氏は、その年のオフに知人を介し、個人的に西武の入団テストを受ける機会を設けてもらえることに。その日に予定されていた1軍の練習がなくなり、現役を引退したばかりの伊東勤監督、土井正博ヘッドコーチが視察に訪れた。「今思えば、桐蔭学園高、法大、アメリカでやっていたとなれば多少は興味を持ってもらえたのかな」。
打撃、守備、ブロッキングなどを披露。伊東監督から捕手経験を聞かれ「大学までは内野手でしたが、アメリカで3年間キャッチャーでした。みっちり試合に出ていました」。「アメリカではどんな感じ?」「指導を受けたことはほとんどないです。ですので伊東監督からご指導いただけるなら、伸びしろしかないです」。お調子者らしく即答した。
伊東監督の現役引退で、チームは捕手が補強ポイントだった。佐藤氏は実はこの2日前にヤクルトの入団テストも受けており「2軍の球場でボコボコに(ホームランを)放り込みました。『獲りたいから検討する』と言ってもらったんですけど、伊東さんはその場で獲ると言ってくださったんです。監督に直接見てもらったことが大きかった」。ドラフト会議の約2週間前の出来事だった。
7位指名ながら、約束通りに晴れて西武の一員に。だが後日談も。ドラフト会議はスカウト担当が1年間かけて綿密にシミュレーションし、指名候補を絞り込む。佐藤氏は「皆さんが必死に戦略を立てて、数人しか獲れないのに、直前に訳のわからない自分が横から入った。スカウトの方々は僕に怒っていたと聞きました」と苦笑した。
松坂大輔氏のスライダーに自信喪失「見たこともない曲がりで捕れない」
ドラフト後、球団側に登録名を「G.G.佐藤」にすることを依頼。突拍子もない提案に球団幹部も「は? 何を言っているんだ」。しかし、中学時代からのあだ名「じじい」をアレンジしたもので、米国でもこの愛称でプレーしていたことを伝えたところ「『そういうことならいいよ』と。意外とすんなりOK出ました」と明かした。
異例の経歴、謎めいた登録名で瞬く間に注目ルーキーとなり迎えた2004年2月の宮崎・日南市南郷町での春季キャンプ。球団側も話題性を高めるためか、第1クールの初ブルペンでいきなりエースの松坂大輔と佐藤氏の“バッテリー”を組ませた。
「もう、バリバリのエース。メジャー挑戦前で脂が乗っている松坂ですよ。ストレートを受ける手が痛いんです。次にスライダー投げたら、見たこともない曲がりで捕れないんですよ。『もうその球投げないで』って松坂に言いましたもん。アメリカで速い球は受けたけど、松坂は別格でした」
キャンプが始まったばかりの第1クールの段階で、後に殿堂入りを果たす大捕手だった伊東監督に「もうキャッチャーは無理です。辞めたいです」と仰天の直訴。「嘘だろ? お前、キャッチャーできるというから獲ったのに、キャッチャー詐欺か。もう少し頑張れ」と驚かれたが「ずっと辞めたい、辞めたいと言っていましたね」。
年下の救援投手と組んだオープン戦。落差の大きいフォークボールが武器だったが、体を張ってワンバウンドする投球をブロックし続けることが困難で「全部ストレートのサインを出し続けたら、森野(中日)にものの見事にホームランを打たれました」。
試合後に伊東監督からオール直球の理由を問われ「『相手の裏をかいたつもりでした』ってごまかしちゃいました。投手には申し訳なかったです」と“懺悔”した。翌2005年、佐藤氏は内野手登録となり、2006年には外野手登録となった。
1年目は45試合で打率.298、3本塁打8打点も、成績以上に注目された。「俺、目立っていましたよね。目立つのは嫌いではないけど、新人で結果出していないのに……という思いはありました。結局、持ち前の明るさで乗り越えていましたけど」。オフに入ると、規格外のルーキーは今度は契約交渉で物議を醸すことになる。
(湯浅大 / Dai Yuasa)