減俸、自費キャンプ、背番号剥奪、出場停止 「クビを覚悟」震え上がった中日の罰則
移籍拒否で藤波行雄氏は減俸、自費キャンプ、背番号変更、6カードの出場停止となった
常にクビを覚悟していた。元中日外野手の藤波行雄氏は、プロ4年目の1977年シーズンから毎年“背水の陣”だった。1976年オフにクラウン(現西武)へのトレードを拒否して、背番号「3」の剥奪などのペナルティを受けて残留。「結果を出さなければ、もうどうなるかわからない。必死でしたよ」。そんな気持ちで1年ずつクリアしていった。「4年目は8月に(ウィリー・)デービスが怪我をして出番が増えた。そういう運もあったのかもしれない」。ギリギリの闘いが続いた。
減俸、自費キャンプ、背番号「3」剥奪で「40」に変更、開幕から6カードの出場停止……。藤波氏はすべてのペナルティを受け入れて中日に残留した。ファンによる「藤波トレード反対」の署名運動が大きな影響を与えたが、周りの見る目はまだまだ厳しいものだった。「シーズンで結果を残せなかったら、すぐクビになるんじゃないかと覚悟していた」。それまで以上の緊張感を持って4年目に突入した。
開幕から6カードは出場停止。「実戦はできないから、2軍のシートバッティングなどで調整した」。一生懸命汗を流す藤波氏の情報は、与那嶺要監督の耳にも入っていたのだろう。停止明けの開幕7カード目の大洋(現DeNA)戦(福井)から1軍登録された。背番号「40」での“デビュー戦”。「覚えています。福井ですよね」。うれしかったのは仲間たちの反応だ。「わだかまりなんて全然。特に野手の人たちは仲間意識を出してくれた。ありがたかったです」。
その復帰戦に藤波氏は代打でヒットを放った。「(大洋の)根本(隆)から打ったんじゃなかったかな。最初から結果を出さなきゃいけないって思っていた。よかったですよ」。トレード騒動後の注目の打席でも不思議とプレッシャーは感じなかったという。「そういうのに強いっていうのか、俺って変なヤツなんですよ。節目、節目できっかけを作ってきましたからね。大学の時に1年から1番センターで出してもらうきっかけの(オープン戦での)代打ヒットとかもね……」。
元メジャーのスター、デービスが故障離脱…藤波氏にチャンスが巡ってきた
そしてまた「やっぱり、運なんじゃないですかねぇ」と自己分析した。この4年目は復帰戦こそ「H」マークを点灯させたが、数字的には決してよくはなく、苦しい立場だった。流れが変わったのは、藤波氏が剥奪された背番号「3」をつけたデービスが8月2日の広島戦(広島)のセンターの守備で外野フェンスに激突、左手首の骨折で離脱したことだ。デービスが抜けたセンターのレギュラーポジションを、藤波氏がつかんだ。
シーズン後半戦は「1番・二塁」高木守道、「2番・中堅」藤波のコンビが中日の主流。藤波氏のバットの調子も上向き、9月は月間4本塁打も放った。結果、100試合に出場し、規定打席には到達できなかったが、打率.318、6本塁打、20打点の成績を残した。トレード騒動の翌年に、ひとまず合格点の数字。クビを心配する必要のない活躍を見せたわけだ。
1973年の「第2回日米大学選手権」で渡米した際、藤波氏がドジャースタジアムで夢中になって見た選手が、当時ドジャースに在籍していたデービス。そんな縁もあった助っ人のリタイアによって藤波氏の出番が急増したのだから、不思議な巡り合わせでもある。「もし、あの時、デービスが怪我をしなかったら、俺はどうなっていたか。おそらく試合にはあそこまでは出られなかっただろうね。結果を出していなかったらとっくに引退していたと思う」。
“中日愛”を貫いて残留したことによる重圧を感じながら、前に進んでいった。トレード騒動もバネにして自らの気持ちを奮い立たせた。決して気は抜かなかった。「プロ3年目のオフにあんなことがあったけど、その後、11年間もプレーできたからね。節目、節目に強運というかね。よく頑張ったと思うよ」。当時を思い出しながら藤波氏はそう話した。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)