「ああ、野球人生が終わった」 戻らなかった腰の振り…引退決めた審判の“ひと言”
山口高志氏は4年目に腰痛を発症…以降は苦闘が続いた
元阪急(現オリックス)の剛腕・山口高志氏(関西大学硬式野球部アドバイザリースタッフ)はプロ8年目の1982年シーズン限りで現役を引退した。4年目の日本シリーズ前に腰を痛めてから、思うような投球ができなくなっていた。「怪我さえ治れば、元に戻ると思っていたんですが……」。治療だけでなく、神頼みもしたそうだが、最後は審判からのひと言で「終わり」を決断したという。
腰痛に見舞われてからの山口氏は苦しい日々の連続だった。独特な“上から叩く”フォームは同じでも、投げる時の腰の感覚が違った。「フォームは変えようがなかった。体が覚え込んだ投げ方というか、腕を振る感覚、そればかりを求めていました。腰の動きと手の部分は絶対連動するんだけど、腰の振りが変わっているから腕も自分のイメージ通りに振れないもどかしさがあった。徐々に力が落ちてきたのではなく、いきなりドンって感じでそうなったのでね……」。
腰を痛めた途端におかしくなったという急な出来事に自身も対応できなかった。むしろ「いきなりドンだから、いきなり絶対戻れるものだと思っていました」。そう信じて、あらゆる治療も行った。「いろんなところに行ったし、知り合いが紹介してくれて神頼みもやりましたよ。宗教にもね。(患部をかざす)お手当てというもので、今、悪いものを取り切りましたって言われました。それが効いたか、効いていないかはわからないですけどね」。
痛みはなくなっても腰の感覚は戻らなかった。「真っ直ぐのスピードも落ちていたでしょうね。それまでは(捕手の)ミットにボールが入る音でお客さんが沸いてくれた。マウンドに上がって初球を投げた時にね。でも、後ろの方の4年間はそういう声が全然聞こえてこなかったですからね」。肘や肩は何ともなかった。それだけに元に戻らない現実が歯がゆかった。
プロ5年目の1979年は16登板で1勝0敗6セーブ、防御率1.97。万全ではないから登板数も減った。入団から4年連続でオールスターゲームに出場していたが、それも途絶えた。阪急は後期に優勝し、前期優勝の近鉄とプレーオフを戦ったが、0勝3敗で敗退。山口氏は第2戦(10月14日、大阪球場)に2番手で登板し、3回5失点で降板した。「最後の方は俺が投げていていいのかなってくらいの気になっていたと思う」。
1イニング7失点、引退決めた審判の言葉「高志! 頑張れよ」
6年目(1980年)は17登板、1勝3敗3セーブ、防御率5.14。7年目(1981年)は3登板で0勝0敗、防御率11.00で、4月下旬に2軍落ちして、そのままシーズンを終えた。「力の勝負ですから。俺より元気なヤツがいっぱい出てきたということですよ」と振り返ったが、厳しい立場だった。そして8年目(1982年)を迎えた。「キャンプに入る時、今年駄目だったら終わるっていうのを考えていました」。覚悟を決めてのシーズンインだった。
島根県出雲市の浜山公園野球場で行われた5月23日のロッテ戦に、山口氏は3回途中から3番手で登板。5回1/3を2安打2失点に切り抜け、打線が終盤に逆転して勝利投手になった。「最後9回は佐藤義則(投手)が抑えてくれた。うれしかったですね。区切りの(通算)50勝目でしたから」。これが最後の白星になった。その後も1軍で数試合に登板したが「一生懸命投げていましたけど、結果がついてきませんでした」。
引退を決意したのは9月3日の西武戦(西宮)だった。1-9の9回表に4番手で登板したが「敗戦処理に行って、敗戦処理にならなかった」。1イニングを投げて5安打2四球7失点。「連打を食らってバックホームのカバーリングに行く時に、アンパイアに『高志! 頑張れよ』と言われた瞬間、ああ、野球人生が終わったと思った。向こうは励ましの言葉をかけてくれたのだろうけどね」。その登板が現役最後になった。
「その日の帰りに、いつも行くお店で親父や仲間に電話しました。『もう終わります』ってね」。ただし、その意思を球団にはすぐに伝えなかったという。「やめますとは言いませんでした。契約の時に呼ばれて『来年からコーチだぞ』と言われて、そうなりました。だって、そういうのは向こうが決めることですから。もしも、来年も選手と言われてもやってはいなかったと思いますけどね」。8年目の成績は8登板で1勝1敗、防御率10.20だった。
その年の阪急は4位(前期2位、後期5位)で、シーズン終了は10月9日。それから約2週間後の10月22日に山口氏は現役引退を表明した。当時32歳。松下電器からプロ入りする時は「30歳までやれればと思っていた」から、それよりは長くプレーした。だが、大活躍したのは最初の4年間。そう考えればほぼ“計画通り”となるのだろうか。「悔いは絶対なかった。あの時計算したら、大卒選手の平均(プロ在籍)年数が7年くらいだったと思う。そういう意味でも32歳はちょうどかなってね」。
8年間のプロ生活「投げすぎよりも投げ方でしょう」
通算成績は195試合、50勝43敗44セーブ。58試合に先発して44完投8完封。神戸市立神港高校、関西大学、松下電器とアマチュア時代からフル回転してプロでもまた、絶えず全力投球で闘い続けた。山口氏はこう言う。「あとあと聞いたんですけど、俺を阪急に誘ってくれた藤井(道夫)スカウトが報告していたそうです。『5年で終わるかもしれないけど、チームが勝つためにはこいつが絶対必要だ』って」。
山口氏が入団してから阪急は4年連続リーグ優勝、3年連続日本一を成し遂げた。まさに藤井スカウトの見立て通りになった。「記録よりも記憶に残してもらえる選手になれたかな」と山口氏は話す。昔のプロ野球の投手は投げすぎが目立ったが「俺らの時代は投げないと給料が上がらないと言われていた。投げられなかったら席がないということですよ」と、そういうことに関しては何とも思っていない。
時代が違うと言ってしまえばそれまでだが、大事に大事に育てられているロッテ・佐々木朗希投手が2023年までの実績でメジャー挑戦を希望したと言われていることについて「今、そういう発想したらアカンやろって思いますけどね」と思わず口に出した。チームの優勝のために、それこそ身を粉にして投げてきた者としては、まず順番が違うと考えてしまうようだ。
「俺の場合は投げすぎよりもやっぱり投げ方でしょう。異常の正常だから」。他の投手にはできない異常な投げ方も、山口氏にとっては正常な投げ方。だから人には決して推奨しないという。その分、肩、肘のケアについては「ちゃんとしていた」と言い切るが、腰痛とともに感覚が狂ったのは誤算だったに違いない。だが、すべてに関してやれるだけのことをやった自負もある。
「今の時代の年俸をもらっていたら、必死に“長生き”しようと思うんでしょうね。俺らの時はよく遊び、よく練習する。みんな真面目じゃなかったですからね。俺はオンとオフの切り替えが下手だったから、ダラダラ遊んでいましたけどね」と苦笑したが、あの野村克也氏が「山口高志が一番速かったよ」と口にした剛腕。アマ時代も凄かったし、プロでも大活躍した時期は短かったが、凄かった。今も語り継がれる名投手のインパクトは大。野球界の歴史に名を残した。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)