戦慄の29失点…阪神名手が野次「桑田ぁー」 歴史的大敗に衝撃、PL学園は「すごかった」
久慈照嘉氏は東海大甲府で4度甲子園を経験…1年夏はスタンドから応援
元阪神、中日内野手で名手として知られた久慈照嘉氏は、東海大甲府(山梨)在学中に4度甲子園を経験した。1985年の1年夏はスタンドで応援、準決勝で宇部商(山口)に9回サヨナラ負けの先輩たちの姿を見て「悔しかったですね」。その大会は桑田真澄投手、清原和博内野手の“KKコンビ”を擁するPL学園(大阪)が優勝。「PLはすごかった」と振り返ったが、番外編の思い出もある。「実はスタンドから桑田さんを野次った記憶があります」と告白した。
東海大甲府に特待生で入学した久慈氏だが「僕は中学で軟式だったけど、すでにシニアで硬式をやっていた選手もいて、投げる距離もスピードも違うし、同学年だけどこんなに差があるんだって感じました」という。とにかく競争の世界だ。「部員は僕らの学年で40人くらいいましたが、15人くらいは1年持たずにやめました」。生き残るためには監督にも、コーチにも、先輩にもアピールしなければならなかった。それもプレーだけではない。
「先輩にかわいがってもらう方が得するんです。ジュースを買ってこいと言われたら、早ければ早いほどいい。『お前、遅いんだよ』って言われると、もう次から呼ばれないですから。朝練も1年生の時は自分が練習するわけではない。ティー上げで先輩の練習を手伝うんです。それもレギュラーの先輩に呼ばれるとうれしいわけですよ。ほかの3年生や2年生からも“ああ、あいつ久慈ね”ってなるんでね。それがプラスになる。そういう時代でしたからね」。
練習もハードだ。「腹筋だったら100、200、300のレベルじゃない。500、600、700。ベースランニングも1セットがあるとしたら、それが10セットとか普通にありました。毎日きつかったですよ。風邪を引いても休んだ記憶はない。無理してでも行っていました。休みはゼロ。12月31日に『よいお年を』って解散して、1月1日には『新年明けましておめでとうごさいます』で練習ですから」。あらゆる面で徹底的に鍛えられたわけだ。
兄弟校の東海大山形が7-29でPL学園に敗れた試合を観戦
1年夏の久慈氏はメンバー入りできなかったが、お世話になった先輩たちが甲子園を勝ち取った。「僕はスタンドで応援でしたが、あれよあれよとベスト4まで行っちゃったから燃えましたよ。次は自分も甲子園でプレーしたいって思いましたね」。宇部商に6-7で9回サヨナラ負けを喫した日に球場からバスで山梨に戻り、翌日からは新チームでの練習がスタートした。「甲子園で最後、悔しかったから大八木監督にも火がつきましたね」。
そんな甲子園でのもうひとつの思い出として明かしたのが「桑田さんを野次った記憶があります」ということだ。それは1985年8月14日。第1試合で東海大甲府が岡山南に11-2で大勝し、2回戦を突破した後のことだった。その日の第2試合に“KKコンビ”で大注目のPL学園が登場した。対戦相手は東海大山形。「僕らの兄弟校なので東海大山形の応援に行ったんです」と久慈氏。そこでの出来事だ。
試合はPL学園打線が大爆発した。32安打を放っての毎回得点で29-7の歴史的な大勝ゲーム。そんな中、久慈氏らは必死に声を枯らした。「あの試合は清原さんもリリーフで投げましたけど、桑田さんがお役御免でライトに来た時に野次ったんですよ。『桑田ぁー』って感じでね。僕らは東海大山形を応援していましたからね。でも、やっぱりPLはすごかったですね」。
目の前でPL学園の強さを見せつけられた。“KKコンビ”は当時3年生で、久慈氏がグラウンドで対戦することはなかったが、インパクト大だったのは言うまでもない。その後、1987年選抜大会で、ショートのレギュラーだった久慈氏の東海大甲府は準決勝で立浪和義内野手、片岡篤史内野手らを擁するPL学園と対戦。延長14回の激闘の末に5-8で敗れたが、PL学園との“縁”は桑田に野次を飛ばした時から始まっていたのかもしれない。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)